生まれてきたことを呪わない

 生まれもった性への拘りはひとを不自由にもする。その昔、自分は体が男性で精神は女性、その上で女性が好きなのではないかと考えて悩んだ時期があった。ある時、単に私は女性が好きなんだと思うに至った。私がなんであれ女性が好きであることに変わりがないと思うことは、私をずいぶん楽にした。 

 男性であることに拘っていたころは随分とこの体が嫌いだった。醜いと感じていた。今では「生まれ持ったものなら活かさないともったいない」くらいに思って筋トレで整えている。筋トレすると萎んだ体に空気を入れるような、朽ちていく体に生気を流すような気持ちになる。それにしても”整えている”とは我ながら言い得て妙だ。鍛えていると打とうとしたら違和感があって、その代わりに浮かんだ。 

 今回これを書いているのは、次の記事を読んで触発され連想された事柄を書き留めるためだ。

「僕はゲイということで、いわゆる世間が求める“男らしさ”というものを結局手にすることができなかった人間だ。だから、というわけではないけれど、すぐ横で“女らしさ”を活用してしなやかに生きる同年代の若い女性たちを見ているうちに、自分が感じている生きづらさを「女は得でいいな」という、うっすらとしたヘイトに変換してしまっていたような気がする。」富岡すばる「ゲイが「女性のフリ」して出会い系をやったら「地獄」だった」
ゲイが「女性のフリ」して出会い系をやったら「地獄」だった(富岡 すばる)

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生まれに直面する経験

 「男なら…」「女なら…」など生まれに直面する経験はひとをひどく不安にさせ、自己否定や他者否定に走らせる。生まれにひとを押し込めようとするのは耐えがたい暴力だ。あまりにひどい場合には生まれてきたことを呪わせもする。呪いを解くには生まれから自由になること、それは否定ではなく距離をおいて暴力の構造から逃れること。
 男性の体をもって生まれてきたことを思い知らされたり突きつけられたりする機会は、たとえばこういう時にもやってくるだろう。

単身赴任生活は1年超に及びました。これで少しは落ち着く。そう思って間もなく、今度は海外赴任を打診されました。キャリア形成には申し分なく、自身のことだけを考えれば、歓迎すべき人事でした。それでも、単身赴任生活での「喪失感」が頭をよぎりました。

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ある特定の生まれにある人を基準に作られた社会

  「普通」でいるうちは気がつかないが、その基準はやがて規則になる。

「ペリーが暮らすイギリスにおいては、デフォルトマンは男性であるということ以外に、白人・ミドルクラス・ヘテロセクシュアル異性愛)といった属性を持っている*2。彼の収入は多く、地位や学歴も高い。権力の中枢により近いところにおり、マナーもよく、愛想もあって、自信に満ち溢れている。個人主義が進んだ社会においてそれらは「彼の努力のたまもの」と見なされるが決してそうではない。制度、文化、建物、電化製品にいたるまで、この社会はデフォルトマンを基準として、彼の都合のいいように作られている。だからこそデフォルトマンは何の障害もなく暮らし、成功の道を進めるのだとペリーは言う。」西井開「男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか」

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 たとえば日本社会において男性であること、正社員であること、転勤を呑むことは雇用慣行上構造的に結びついてきた。こうした雇用慣行について私は小熊英二『日本社会のしくみ 』から学んだ。構造を知ると一見”自然”に思えることが人為の積み重ねだったことに気づく。先に引用した記事で西井が「特権という概念は個人を加害者として引きずりだして責めるためのものではなく、個人が自身の立場を見直し、社会に働きかける契機として存在する」と補注で記していたことに留意したい。

 基準から外れると規則違反とされ、生きづらくなる。生きづらさを感じることは、規則に疑念を抱き基準の恣意性に気づくきっかけとなる。当たり前のつもりだったが、実はある特定の人たちに都合がよかったに過ぎないのだと。その基準は自明でもフェアでもないと拒んだり声を上げたりすることで、自分の生きやすさを拡げられる。

「生まれに押し込まれる呪いの解き方」

 10年前、誰もが自らの人生を生きられるようになることを望んで私は大学で学ぼうとした。その大学に行って私が学んだことを一言でまとめるならこれに尽きる。女性だからとか貧困だからとか、そういった要素で人生を勝手に決められて堪るかと思ってここまできた。そして「生まれてきたことを呪わないために”福祉”はある」と心に決めてから3年が経つ。この言葉は私にとって核心だ。何年経っても同じところをぐるぐるしているようで、螺旋状に上ってより多く、より遠くまで見渡せるようになっていたのだ。

 ひとつの記事が私の思考を誘い、夜更けまで連れてきた。思考は思い出も呼び、ほかの記事や本にも声をかけた。考えることは解体と再構築によって世界の新たな見え方をもたらしてくれるので私はたいへん好きだ。自由でありたいと思ってずっと生きてきた私が考えることはいつでも止められない。


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 話題になったnote「呪いが解ける日」の終わりでスガシカオの書いた歌詞が出てきて、スガシカオファンとしては意表を突かれたし嬉しかったなあ。
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『〈始まり〉のアーレント 「出生」の思想の誕生』

「人間は誰もが、新しい者としてこの世界に生まれ落ち、その唯一の(ユニークな)生の過程を始める。誕生は自由な生の始まりinitiumであり、そのことは誰もが世界のうちで体験できる出来事であるが、その原因や理由を説明することは誰にもできない。出生とは、文字どおりの意味で奇蹟miracleなのである……我々の責務は、……この子どもを我々の世界の一員として"迎え入れる"ことでなければならない。」*1

 

「時の定めを生きる人間は、ひとたび行われた過去の出来事を否定することはできないが、しかし過去の特定の出来事が「絶対的な拘束力」として現在を生きる人々から自由を奪い、未来の行為を方向づけているわけではない。一人の人間は、自らの誕生という始まりを想起し、自らの生を絶えず新たに始め直すことができる。そして彼(女)は、彼(女)がこの世界において出会い、交わりを結ぶ他者が、彼(女)同様にやはりその生の過程を新たに始め直す力を持つ者であることを承認することができ、承認するのでなければならない。イエスの「赦し」とはかかる承認の実践、すなわち我々が共に自由に活動するーーそれゆえに数多の過ちを犯してきたし、これからも犯すであろうーー者であることを互いに承認し合うことであり、そのような者同士として関係を続けてゆくことを肯定することにほかならない。」*2

 

 貧困や差別を放置することは、その渦中にいる「彼ら」を傷つけるばかりではなく、"私たちが人間である"という根本的な事実を傷つけると同時に切り詰め、一人ひとりの生を苦しくさせることに繋がる。一人の人間が貧困や差別にあえいでいるということは、千丈の堤を穿つ蟻の一穴のように、"私たちが人間である"ことそのものの毀損である。貧困や差別は「彼ら」の問題であって「私たち」の問題ではないのだから、「私たち」には責任がない(応答する必要はない)、ということには決してならないのだ。

 

 

〈始まり〉のアーレント――「出生」の思想の誕生

〈始まり〉のアーレント――「出生」の思想の誕生

 

 

*1:森川輝一「出生について」『〈始まり〉のアーレント 「出生」の思想の誕生』岩波書店、2010年、p.347

*2:同、p.328

『ワインの真実』

JN「映画が封切られた今となっては、彼の反応にも変化があったし、彼に忠実なやつらも僕には態度を変えたから、本当に根っから不誠実な人なんだって、心底から思う。彼は、自分のまわりにいるみんなに、不誠実になれって勧めているんだ。ジョージ・ブッシュと同じで、何かを心の底から信じていて、それで不誠実で平気でいられるタイプの人間だよ。自分が正しいと思い込んでいて、それが悪意のようになっちゃっているんだ。彼らにとっては、「他者」は非現実的なものなんだ。だからこそ、パーカーはテロワールという考え方を拒否している。どこまでいっても「他者」だからなんだ。彼には、「味方」か「敵」しかない。だから本当の「他者」は、存在できないんだ。だからこそ、彼は危険なんだよ。」*1

 

今日、私たちの目の前で行われていることは、過去と私たちの結びつきを世界規模で徹底的に破壊していく行為である。何故なら過去との関係を根こそぎにすることは、人を簡単に騙せる環境を創り出すことだからである。そして、マーケティングの大物たちと独裁者たちの夢が叶えられる環境が整えられる。このような状態で、人々の自由を守るために必要な最良の武器は、過去の記憶を共有することである。

 しかし右派と左派という伝統的なイデオロギーの差異が失われ(トニー・ブレア首相のイギリス労働党を政権の誕生が、それを確認する出来事だ)、右派だけでなく、左派も中道もすべて、過去をいっさい抹殺していくという血みどろのスポーツに没頭している。……過去が意味をなくしてしまっている環境では、何を発言し、何をしようが、翌日になれば重要性などなくなるのだ。

 右派であれ、左派であれ、あるいは中道であれ、権力に飢えている者たちにとって、テロワールが脅威となるのはこのためである。テロワールを尊ぶには、過去に対して道徳的な責任の感覚を持つ必要がある(また過去に意味を持たせるためには、常に時間的な推移の中で再評価していかなくてはならない)。文化、社会全体の保護、市民としての責任、公正な雇用、報道の透明性、そうしたものすべては、私たちが歴史の感覚を失った時、つまり私たちはみんなで共同体を構成しているのだという感覚を失った時、崩れ去ってしまう。*2

 

 それでは、「本物」とは何であろうか。「本物」であろうとすることは、なぜ大切なことなのだろうか。私たちが生きている世界は、私たちのイメージから身体まで、気分や精神も、すべて何でも瞬時に人為的に改変できる、そういう世界である。それなのに、なぜ私たちは、相対主義に陥って「本物」などというものは存在しないとうそぶき、すべてのものが有益かつ真実であると主張しないのだろうか。

 「本物が何なのかを決めるのは、自分だよ」という人たちもいる。しかし、そういう人たちに私は、「本物」とか「自然」という概念は、個人の尊厳という神聖不可侵な原則に結びついている、と答えよう。私たちはみんな、他者と異なる権利を持っているだけではなく、その権利に付随して義務も負っている。「本物」を拒絶することには、結果として一つの危険がともなってくる。それは、個人のアイデンティティでも、意見でも製品でも創造行為でも、極端な独我論的なものになってしまう可能性である。それは、何千年にもわたって私たちが共有してきた文明を拒否することになりかねない。*3

 

 

ワインの真実――本当に美味しいワインとは?

ワインの真実――本当に美味しいワインとは?

 

 

 

*1:ジョナサン・ノシター(加藤雅郁訳)『ワインの真実』作品社、2014年、165頁 

*2:ジョナサン・ノシター(加藤雅郁訳)『ワインの真実』作品社、2014年、408-409頁

*3:ジョナサン・ノシター(加藤雅郁訳)『ワインの真実』作品社、2014年、410頁

書き溜め

真摯であることを決して笑わない、決して疎かにしない、決して諦めない。

Never sneer at being sincere.
Never neglect to be sincere.
Never give up being sincere.

失敗は成功の反対ではなく、その一部である。何もしないことこそが成功の反対なのだ。

Failure is not opposite of success, but a part of it. The opposite is what nothing to do.

研究をしてこなかった事実から目を逸らすことはもうしない。

I won't anymore keep ignoring the fact I have not been researching.

星に願いを。

天上で双子座流星群の収穫が最盛期を迎えたらしい。今ごろ地上では双子の種が蒔かれていることだろう。願いはもちろん、健やかな子が生まれてきますようにだ。
流星が流れて消える間に願い事を三つ言えたら、その願いが叶うとは誰しも聞いたことがあるだろう。その本質は、あれだけ僅かな一瞬にその願い事を三つも繰り返せるほど熱心なら自ずと叶える行動に移るということにある。
流れ星に願うことは、終わりではなく始まりか決意の確認だ。願ったから叶うと考えて何もしない人には何も起きない。流れ星が何か叶えることは決してないのだから。

その昔、中学生になったかならないかくらいのころ、ハッピーターンの包装紙に「シャープペンシルに芯を6本入れて、それを誰にも触れさせずに使いきれたら願いが叶う」と書いてあった覚えがある。それを見てからというもの、私はシャープペンシルに芯を6本入れて、なるべく人に触らせないようにした。ひとに貸すときは別のものを渡した。
では私はその包装紙に書かれていたことを信じていたか?信じていなかった。それはつまり、6本もの芯を入れたシャープペンシルを誰にも触らせずに一心に書ききる気概があるなら、願いを叶えることもあるだろうと、そういう意味だろうと気がついていた。私には昔から物事を一足飛びに把握する癖がある。飛んでいるから足場がなくて、いつも宙ぶらりんになる。
6本の芯を入れたシャープペンシルを誰に触らせることなく使いきっても、べつに私の願いは叶わなかった。願いを叶えるのに繋がることを私は何もしていなかったから当然だ。流れ星と同じで、それ自体が願いを叶えることはない。

願い、たとえば将来の夢でいえば何も叶っていない。私は天文博士になっていないし、マクドナルドの店員になっていないし、最高裁判所の裁判官にも、「世界を守る王」にも、小説家にさえなっていないし、まして日銀や厚労相の職員にもなっていない。私は私が望んだと思っていたことを何も叶えていない。
どれもその通りにならなかったが、それでもそれなりにいいと思える人生を歩んでいる。かつて私が望んだことは、そのとき私に影響を与えたものを反映している。だからそれらは「私のたった一つの望み」というより、そのときの私が見ていた方向と言える。

いま「私のたった一つの望み A mon seul désir」は、この世界に対して誠実に開かれた存在であること。私が存在する前からも、存在した後にも、在り続けるこの世界のこの永続性を守ることが私の望み。私はこの私が存在した証を遺したいと、もうずっと願っている。そのためにはこの世界がなくてはならない、在り続けなければならい。
私はこの世界のありのままを受け止めたい。私が世界のありのままを受け止められているか気になって、胃腸がちくりちくりと痛むほどだ。思い過ごしをしているだけではないか、自分が何をしているかまるで分かっていないのではないか。
ねじ曲げてしまえば安らぎも得られるかもしれないが、そうした途端に世界から私は退場することになる。それはできない。
オルタナファクトやポストトュルースが跋扈する時代だからこそ、せめて私は事実を目の当たりにしたい。どれほど目を覆いたくなる悲惨なことでも、目を逸らして、なかったことにしてはならない。

この星に願いを。
☆……(願わくば、早起きしたいです)……彡

先輩の卒業式

「みんなの頑張りを見て、自分も頑張ろうと思いました」
 直前まで出かかった「頑張りたい」という言葉を呑みこんで、より前向きに聞こえるようにした台詞だった。
「そうだね。ああいう場で、頑張ってるやつらを見るとそう思うこともある。でも俺は、頑張れない時やダメな時、どうしようもない時も集まれるような、そんな場所もあってほしいと思ってるよ」
 ここ最近の自分の後ろめたさにサッと光がよぎるような言葉に驚いた。四年前、自分がにっちもさっちもいかなくなっている時に、「諦めるにはまだ早いよ」と言ってくれたことを思い出した。ワンフレーズに光が宿る「先輩」だった。

 「先輩」は同じ大学の人でも職場の人でもない。それでもその人は、初めて会ったときから自分にとって「先輩」だ。その「先輩」が、約10年いた場所を卒業する。年上の人と親しく関わることが極端に少なかったので、今になって先輩が卒業するとはこういうことかと実感している。
 その人を先輩だと思うのは、初めて会ったとき印象もあるけれど、どこかで自分と近しさを感じていたからの方が大きい。憧れの人というべきか、道の先を行く人というべきか。歩いてきた道のりは違えど、どこかで同じような景色を見てきたのではないかと、勝手に感じている。いや、景色と呼べるきれいなものよりも、目を背けることのできないまざまざとした光景を目の当たりにした経験があるからなのか。
 陰にある存在に、はたまた影があることに気づいている人は、どこにどう光を宛てればよいか知っているように思う。ただし、無闇に白日の下に晒すことはしない。そこに隠れているものが突然の光に目を潰されたり、脅かされたりしてしまうことも分かっているから。「先輩」は、その明るさの調節がとても巧みだった。

 自分はこのところ周りにいる人たちが眩しく見えていた。知らず知らずのうちに暗がりに後ずさりしていたせいだろう。自らのすべきことを果たしている姿が輝いているようで、何もしていない自分の影が濃く見えていた。
 私は自分がやるといったことをずっとやらないでいる。その場のつじつま合わせはできても全体は継ぎ接ぎだらけだ。その綻びが、ほつれが目立ってきて、糸が絡まり、身動きをますますしづらくしている。
 このぐちゃぐちゃを紡ぎ直す作業が必要だ。まずは空回った口車を止める。いまいちど言葉を紡いで文にする。文を編んで文章にする。

 燻っている私は燃えたいのだ。火のない所に煙は立たぬ。煙がたつなら火はついている。高校時代、やり場のない思いと焦燥感を抱えていた自分のことを、発電のしっぱなしで送電装置のない発電所のようだと思っていた。
 身を粉にして、火の粉を散らして、生きていたい。暗がりのなか寒さと不安で震えている人が、暖をとりに来るような場と存在へ。私は、薪とその薪をくべる手伝いをしてくれる人を欲している。

橋本努『学問の技法』言及文献

はじめに

第1章 知的モチベーションの方法

第2章 知的体育の技法

第3章 知的生活の技法







第4章 情報収集の技法

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第5章 読書の技法

第6章 議論方法

第7章 問いかけの技法

第8章 レポートの技法

おわりに