『〈始まり〉のアーレント 「出生」の思想の誕生』

「人間は誰もが、新しい者としてこの世界に生まれ落ち、その唯一の(ユニークな)生の過程を始める。誕生は自由な生の始まりinitiumであり、そのことは誰もが世界のうちで体験できる出来事であるが、その原因や理由を説明することは誰にもできない。出生とは、文字どおりの意味で奇蹟miracleなのである……我々の責務は、……この子どもを我々の世界の一員として"迎え入れる"ことでなければならない。」*1

 

「時の定めを生きる人間は、ひとたび行われた過去の出来事を否定することはできないが、しかし過去の特定の出来事が「絶対的な拘束力」として現在を生きる人々から自由を奪い、未来の行為を方向づけているわけではない。一人の人間は、自らの誕生という始まりを想起し、自らの生を絶えず新たに始め直すことができる。そして彼(女)は、彼(女)がこの世界において出会い、交わりを結ぶ他者が、彼(女)同様にやはりその生の過程を新たに始め直す力を持つ者であることを承認することができ、承認するのでなければならない。イエスの「赦し」とはかかる承認の実践、すなわち我々が共に自由に活動するーーそれゆえに数多の過ちを犯してきたし、これからも犯すであろうーー者であることを互いに承認し合うことであり、そのような者同士として関係を続けてゆくことを肯定することにほかならない。」*2

 

 貧困や差別を放置することは、その渦中にいる「彼ら」を傷つけるばかりではなく、"私たちが人間である"という根本的な事実を傷つけると同時に切り詰め、一人ひとりの生を苦しくさせることに繋がる。一人の人間が貧困や差別にあえいでいるということは、千丈の堤を穿つ蟻の一穴のように、"私たちが人間である"ことそのものの毀損である。貧困や差別は「彼ら」の問題であって「私たち」の問題ではないのだから、「私たち」には責任がない(応答する必要はない)、ということには決してならないのだ。

 

 

〈始まり〉のアーレント――「出生」の思想の誕生

〈始まり〉のアーレント――「出生」の思想の誕生

 

 

*1:森川輝一「出生について」『〈始まり〉のアーレント 「出生」の思想の誕生』岩波書店、2010年、p.347

*2:同、p.328