余力とは自分が誰かの助けになる力

 5月に絶不調に陥り、そこで感じたもやもやをうまく言語化できないまま、7月が来た。あえて言えば、「ああ、私は生かされてきたんだな」「私たちはとても便利な社会に生きてきたが、このまま何もしなければ、少しずつ不便が生活を取り囲むだろう」という感触だ。ごみの収集日が減って街は少しずつ臭うようになり、役所や病院で待つ時間はますます長くなり、そもそも病院がなくなり、保育園に子どもを入れられなくなり、道路は穴だらけで、街灯は暗いままで、水道は値上がりし、商品棚には物が並ばず、頼んだものは届かず、電話をかけてもいつもつながらず、仕事を休もうにも職場は火の車で、賃金が上がる見込みは少なく、何かを躊躇うことが日々積み重なっていく。そういう小さな不便だ。何かが劇的に変わるわけじゃない。自分を自分で支えられなくなったときに、自分を支えてくれていた多くのものが、限界に近付いていることに気づく。倒れそうになって寄りかかった柱に、ひびが入っているのが目につく。

 かつてなら(それがいつかも分からないが)、自分のしていることが誰かの助けになっているはずだった。社会に余力があったと言ってもいい。余力とは、自分が誰かの助けになる力のこと。今では自分で自分をどうにかしろと暗に言われ続けた結果、悲しい哉、かしこくも適応した私たちはすっかり自分のことで手いっぱいで余力を失ってしまった。今日の社会に余力が乏しいことは毎年の大雨の被害で、数年に一度は起こる大規模な地震で、そして今回の新型感染症で明らかになってきている。自分がどうにかなっている時でさえ誰かの助けになるのが難しいのに、まして自分ではどうにもならない状況で誰かの助けになろうとするのは更に難しい。

 「自分で自分をどうにかしろ」という規範を受け入れた場合、誰かの助けになることは二つの点で違反となる。ひとつは、他者が自らどうにかしようとするのを「阻害」することになる点。もうひとつは、他者の助けになることで自分に割くリソースが減る点。「自分で自分をどうにかしろ」を忠実に守ろうとすると、自分に関わりのないことはしないという行動をとる。湯浅誠が「自己責任論」が言いたいのは「私には関係ない」ということだ、と解釈したのを改めて思い起こしたい。

 便利とは自分が頑張らずとも望みが叶うことで、不便とは自分が頑張らなければ望みが叶わないことを言う。誰かのしていることが自分の助けにもなっているから、自分だけで頑張らずとも、自分の望みを叶えられた。誰かのしていることがその人の助けにしかならないなら、自分で頑張らなければ、自分の望みは叶えられない。誰かの助けになれば、その人に余力ができて、その人がまた誰かの助けになって、そうして余力が増えていく。

 もしまだこれからも世の中が便利になってほしいなら、なにもかも自分でどうにかするのはやめて、誰かの助けを借りて自分の余力を増やして、自分が誰かの助けになることから始めよう。知らないうちに誰かが助かっている世の中を便利な社会と言う。誰かを助けようと頑張らなくてもいい。自分に余力ができれば、つまり自分が誰かの助けになる力がつけば、知らず知らずのうちにどこかで誰かが助かっている。

 それでも何かをしないではいられないなら、まずは自分が日々助かっていることに敬意を表明するところからでいい。冒頭で挙げた不便の例は、誰かによって助かっていた「ありがたい」ことでもある。こんなにも自分のことで手いっぱいで必死な世の中で、それでもなお誰かの助けになっているなら、当たり前のことではなく「あり難い」こととして受け止めよう。