先輩の卒業式
「みんなの頑張りを見て、自分も頑張ろうと思いました」
直前まで出かかった「頑張りたい」という言葉を呑みこんで、より前向きに聞こえるようにした台詞だった。
「そうだね。ああいう場で、頑張ってるやつらを見るとそう思うこともある。でも俺は、頑張れない時やダメな時、どうしようもない時も集まれるような、そんな場所もあってほしいと思ってるよ」
ここ最近の自分の後ろめたさにサッと光がよぎるような言葉に驚いた。四年前、自分がにっちもさっちもいかなくなっている時に、「諦めるにはまだ早いよ」と言ってくれたことを思い出した。ワンフレーズに光が宿る「先輩」だった。
「先輩」は同じ大学の人でも職場の人でもない。それでもその人は、初めて会ったときから自分にとって「先輩」だ。その「先輩」が、約10年いた場所を卒業する。年上の人と親しく関わることが極端に少なかったので、今になって先輩が卒業するとはこういうことかと実感している。
その人を先輩だと思うのは、初めて会ったとき印象もあるけれど、どこかで自分と近しさを感じていたからの方が大きい。憧れの人というべきか、道の先を行く人というべきか。歩いてきた道のりは違えど、どこかで同じような景色を見てきたのではないかと、勝手に感じている。いや、景色と呼べるきれいなものよりも、目を背けることのできないまざまざとした光景を目の当たりにした経験があるからなのか。
陰にある存在に、はたまた影があることに気づいている人は、どこにどう光を宛てればよいか知っているように思う。ただし、無闇に白日の下に晒すことはしない。そこに隠れているものが突然の光に目を潰されたり、脅かされたりしてしまうことも分かっているから。「先輩」は、その明るさの調節がとても巧みだった。
自分はこのところ周りにいる人たちが眩しく見えていた。知らず知らずのうちに暗がりに後ずさりしていたせいだろう。自らのすべきことを果たしている姿が輝いているようで、何もしていない自分の影が濃く見えていた。
私は自分がやるといったことをずっとやらないでいる。その場のつじつま合わせはできても全体は継ぎ接ぎだらけだ。その綻びが、ほつれが目立ってきて、糸が絡まり、身動きをますますしづらくしている。
このぐちゃぐちゃを紡ぎ直す作業が必要だ。まずは空回った口車を止める。いまいちど言葉を紡いで文にする。文を編んで文章にする。
燻っている私は燃えたいのだ。火のない所に煙は立たぬ。煙がたつなら火はついている。高校時代、やり場のない思いと焦燥感を抱えていた自分のことを、発電のしっぱなしで送電装置のない発電所のようだと思っていた。
身を粉にして、火の粉を散らして、生きていたい。暗がりのなか寒さと不安で震えている人が、暖をとりに来るような場と存在へ。私は、薪とその薪をくべる手伝いをしてくれる人を欲している。