マキアヴェッリ、実は結構好きなんです。

「個人と共同体の関係性から見たマキアヴェッリ論」

 

 個人と共同体の関係性はいかなるものであろうか。共同体とはすなわち個人の群体である[1]。この観点から共同体を捉え直すとき、つまり共同体それ自体をあたかも一人の人間であるかのように見做すとき、これまでの議論では見えてこなかったものが見えてくるのではなかろうか。個人の心身の振る舞いから類推して共同体を捉え、その相互の関係性を再考することがこの論文の目指すところである。具体的にはマキアヴェッリの議論をもとに以下で論を進めていく。彼がとりわけ着目した軍事・外交問題という国の「拡大」に関する点が大いに人間の本性と重なってくるのである。

 まずマキアヴェッリの議論を大雑把にまとめる。マキアヴェッリは透徹したその眼差しで人間の本性を暴き、その上でどのような政体が望ましいのか、またそれの維持のために人はどう振る舞うべきかを論じた。彼がそれまでの人間観や政治観との決別をしたことは主著『君主論』の一文から明らかである。いわく「多くの人々は実際見えもしないし、知覚されもしない共和国や君主制を頭に描いている。」(佐々木毅マキアヴェッリと「君主論」』講談社学術文庫 p.256)あるいは「君主が……資質のうち良いと思われるすべてを体現するのは非常に称賛に値することであると人々は考えているようであるが、しかし……一人の君主がこのようなすべての資質を持ったり、完全にそれに従って行動することはできない。」(前掲書 p.257)と。

 このようにマキアヴェッリはそれまでの人々が抱いていた偶像は投げ棄て、実生活や実社会における人間の欲望に忠実な本質をはっきりと認識していた。そうしていながらそれを嘆くのではなく淡々と受け止め、その本質を抑える方法や力のあり方を論じたのである。移ろいやすい人民を統率するための権力機構<stato>として君主制や共和政を捉え、その際に善き政治、悪しきの政治の区別は放棄して権力の有無に関してのみ区別した。君主は君主たるものとしてどのように善き人であるべきかという理想君主論を退け、民衆の欲望を統制するために“恐れられる”対象として君主をおく見方を採った。

 こうしたマキアヴェッリの言説はともすると目的のためなら手段を択ばない権謀術数主義、いわゆるマキアヴェリズムとして忌避・揶揄される。しかしそのような見方は一面的なものに過ぎず、彼の目指した先は政治秩序の安定である。生地フィレンツェの動揺およびイタリア全土と周辺国の動乱を目の当たりにした彼は、あくまで秩序維持のための権謀術数を説いたのだ。なかでも軍事と外交を最重要視した点が注目に値し、それまで内政のみを取り上げていた政治論とは気色が異なる。

 マキアヴェッリは特に傭兵制を痛烈に批判した。フィレンツェの弱体化の原因の一端としてこれを挙げ、彼は「臣民軍」の創設を提唱し実現に奔走した。自国のためではなく、単に経済的利益によってしか動かない傭兵に防衛を依存することは愚の骨頂だと喝破したのである。ただ、自分たちの生活を自分たちの力で守れることを至上としたマキアヴェッリだが、一方でそれを実現させる方策に関しては詰め切れなかった。肝心の部分で「フィレンツェに忠実なコンタードの人間を歩兵として組織し、この臣民軍を都市コムーネの手足となる軍隊となす」(前掲書 p.82)とするに留まった。

 ところでマキアヴェッリといえば『君主論』が挙げられるほどこの二つはセットで認識されているものの、彼自身は決して一人の君主のみを対象に「あなたはこのようにあるべきです」と語ったのではない。特定の君主という一個人の気質のみを頼りとするのではなく、システムとしての政体を構築することを意図した。そのために古代ローマで見られたような共和政を参考にしつつ、周辺国に対しては秩序維持のためにある種「君主」的存在として振る舞えることを目指したのである。

 マキアヴェッリが『君主論』において語るところで有名なのはいわゆる運命<fortuna>と力<virtu>の議論である(『君主論』第25章 前掲書ではp.309-314)。人が決して抗えないかのように受け止められている運命でも、日常において不断に備えを怠らず、対抗するための力があれば必ずしもその恣とはならないことを説いた。マキアヴェッリは望ましい状態として共和国全体に通底する力<virtu>があることを強調した(佐々木毅マキアヴェッリの政治思想』岩波書店 第4章第三節)が、マキアヴェッリ古代ローマをしばしば範とするのも、その対外膨張という「拡大していく力学」に着目していたからだった。

 マキアヴェッリ君主制よりも共和政を評価したのは、各人が与えられた自由のもと己の利害を追究していくという個人としての「拡大」に重ねて、共同体としての「拡大」を感じ取ったがためである。その欲望の奔流を統制するのが統治する立場にある者の務めであり、多様な欲望を束ねられる力が権力であった。共和国の自由とは個人の利害を貫徹する自由を保障する場があることである。民衆に求められるのはそれを守ることであり、自己を起点としたうえで包摂される空間=国家を守ることであった。マキアヴェッリは民衆の一体性の獲得という視野から、閉鎖的で「維持型」の君主制か開放的で「拡大型」の共和政かを見たとき、後者を推したのである。絶対的な力で秩序を維持し、その国の平和を担保することで人々の自由な利潤追求活動の場を保障することをマキアヴェッリは統治する立場にある者に求めたのだった。

 以上が乱暴なまとめである。マキアヴェッリは徹底したリアリズムに基づいて人間を観察し、政治を論じた。佐々木毅のいう「人類はマキアヴェッリの教えを受ける以前、すでにマキアヴェリストでありえた。」(『近代政治思想の誕生』岩波文庫 p.75)は言い得て妙である。人間がいかに聖人君子とは程遠いものかを大前提とした上で、無秩序に陥らない方策を探ったのである。今日印象としてしばしば語られるような謀略や非情な手段というのは、それが全体の秩序に資するときのみマキアヴェッリは認めたのである。それが却って全体を損ねるようなことは決して認めなかった。またマキアヴェッリはなによりも国家の「拡大」に着目し、軍事と外交を重点的に述べた。それは人間の貪欲さを国家の発展に転化させるためのものであったと言えよう。

 人間は利己的に振る舞うものとしてマキアヴェッリは見ているが、より忠実には自己と他者との関係性において利があるように行動することもある。これは利他的とも言われるが、利己か利他かというのはその利益を享受する異なる立場から同じことを言っているに過ぎない。「社会的自我」を唱えたミードがいうように、人間の根本となる自我は他者との関係性において構築される[2]。そうであるが故に人間は必ずしも毎回自分の私腹を肥やすためだけに動くのではない。他者との関係性を考慮しながら行動するのである。この自我の性質、つまり他者との関係性を有すること及び外部のものを吸収し続けることが、マキアヴェッリの議論を見るうえでも肝要になってくる。一個人のレベルでは周囲との関係性に基づいて社会的自我が形成され、振る舞いが規定されていくとともに、外部との関わりあいのなかで成長=「拡大」していく。これが国家となったときも本質は変わらず、たえず対外的なやり取りのなかで国家は国家として形作られ、他国を物理的あるいは経済的に飲み込むことによって発展=「拡大」していくのである。

 このように、国家が人間の集まりによって成立する以上、それを人間の振る舞いから類推して捉え直すことは荒唐無稽なことではない。今日隆盛を極めている「ゲーム理論」は人間の振る舞い方を解明していくものだが、これは国家を論じるのにももちろん有用である。個人と共同体は規模の大小であるとともに、互いに他者でもある。自我の存立やそれを存立たらしめる関係性のあり方を考察すること、個人の振る舞いを綿密に見ていくことはミクロレベルの話ではあるが、国家に代表される共同体のようなマクロレベルの議論に資するのである。これはちょうど量子力学が宇宙の解明に多分に寄与してきたことと同様である。今回は筆者の力量不足から稚拙な段階に留まったが、以後もこのような視点から論じていきたいと強く思っている。

 

参考文献

佐々木毅マキアヴェッリと「君主論」』講談社学術文庫

佐々木毅マキアヴェッリの政治思想』岩波書店

佐々木毅『近代政治思想の誕生』岩波文庫

西村豁通、竹中恵美子、中西洋編著『個人と共同体の社会科学』ミネルヴァ書房

G.H.ミード 船津衛・徳川直人編訳『社会的自我』恒星社厚生閣

トム・シーグフリード 冨永星訳『もっとも美しい数学 ゲーム理論』文春文庫

 

[1]この世界は、いわばその細胞をなす<個人>を最小の単位として、それを包み込む種々の大きさと特性をもつ諸々の<組織>ないし<共同体>――家族、集団、結社、組合ないし会社、教会、自治体、国家、国家連合etc.――をなし、いわばその神経系ないし循環器系としての<市場>がそれらを相互に結びつけている。(西村豁通、竹中恵美子、中西洋編著『個人と共同体の社会科学』ミネルヴァ書房 p.2)

[2]自我の発達は社会集団のなかにおいてのみ生じる……なぜなら、自我は、物的対象としての有機体が他の物的対象との関係においてのみ存在するように、他者との関係においてのみ存在するからである。(G.H.ミード 船津衛・徳川直人編訳『社会的自我』恒星社厚生閣 p.48)

われわれは、自分に対する他者の態度を取得でき、そして、他者の態度に反応でき、また実際にそうするかぎり、まさに、そのかぎりにおいて、自我をもつのである。(前掲書 p.64)