あの日やり遂げた分科会の振り返りを僕はまだしていない、と言ったな。あれは嘘だ。
前巻までのあらすじ
第38回 政策・情報 学生交流会で分科会を担当する(酒)の みつき。
他大学の学生と夜な夜なSkypeで会議をし、迫りくる企画書の締め切りを乗り越え、間に挟まる試験の波に溺れかけ、藁をもつかむ思いで酒に手を伸ばし、酒に溺れかけ、女にも溺れようかと思いきやここは砂漠地帯、喉が渇きます、一滴の潤いをもとめてさまようこと幾ばくか、視界が開けたその先にはそびえる山々、そう、そここそが交流会の行われる赤城山であった――
赤城山という呼称のついた山はないそうです。
交流会3泊4日中、前半の振り返りと反省を行ったので今回は後半戦。ロスタイムもあるよ!
交流会三日目(前半8.5h;後半1.25h)
前半
おはようからおやすみまで、分科会をお届け。
これまた朝早いので準備運動をしてからスタート。
この日から分科会のテーマである「社会的排除/包摂」を本格的に扱っていき、「社会的包摂」の具体策としての「ユニバーサルデザイン」を示す。
分科会では手始めに「社会的排除/包摂」「ユニバーサルデザイン」の説明を。
これまでは「社会的排除」の対抗概念くらいの位置づけであった「社会的包摂」に積極的な意味づけを行った。
いわく「社会的包摂とは、“例外”をつくらないこと」であると。
左利きの人はいないから、車いすの人はいないから、目が見えにくい人はいないから…このように捉えてしまえば、その人たちは例外的な存在となってしまう。
つまり、普通いるはずないとされてしまう。社会的にいないことにされてしまう。
「社会的包摂」はこれを防ぐために、例外をつくらない。すべての可能性に対し開かれている。
そして、すべての可能性に開かれているということから「ユニバーサルデザイン」が具体策として導かれる。
誰にとっても扱いやすいもの・こと・情報・サービスであるというのは、すべての可能性に対してそれらが開かれているということ。
よく「ユニバーサルデザイン」と「バリアフリー」の混同がなされるが両者は明確に違う。
というよりもっとはっきり言うと対の関係にあたる。
前者は“誰にとっても”だが、後者は“ある人のために”である。また前者は事前的な処置であり、後者は事後的な対策となる。
建物の入り口をさだらかな坂にすることはユニバーサルデザインであっても、はじめ階段だけであとからスロープをつけることはバリアフリー。
分科会でもこの違いをはっきりとし、参加者が混乱しないように徹底した気を付けた。
前篇でも書いたがこれらの用語はあくまでツールであり、目標は
「 他人を自分と無関係な人と切り捨ててしまうのではなく広く自分事として捉えられるようになること、
かつそうすることがなぜ必要かを説明できるようになること」
である。すでに前日までのワークで前半分は達成されていた。
参加者側は用語を使ってこちら側が伝えたかったことを大まかには把握していたため、説明自体の必要性はあったにしても手短にするべきであった。
交流会最終日にある他の参加者に向けたアウトプット準備にはいくら時間があっても足りないことを考えれば、なおさら時間短縮をしておきたかった。
説明のあとはユニバーサルデザインを身近なところから見つけ、それに理由を加えて発表するための準備に入った。
二日目に行ったロールプレイングでもそうだが「他人のコト」を「自分のコト」にする過程を入れれば理解はぐっと深まる。
つまるところ人は自分のことでない限りはそうそう身が入る訳ではないのだ。まあ、自分の人生しか生きられないのだし。
いくつか疑似体験として参加者に水の入ったバケツを持って歩いてもらったり、かがんで歩き回ってもらったり、目をつぶって研修室内を一周してもらったりした。
バケツの水がこぼれないようにゆっくり歩かなければならないし、気も使わなければいけない。かがむとドアの開閉がしづらいし、高いところに手は届かない。目では判断できないため、手を使って確認しながら歩かなければいけない。
こうした妊婦体験や車いす(子ども目線)体験、視覚障害体験のほか、一つの言葉(ぴーちくぱーちく)だけを使って相手に物事を伝える「ぴーちくぱーちく王国」を通して言語障害や外国人の体験をしてもらった。
「ぴーちくぱーちく王国」ではまず言葉だけで、次に身振りを交えて伝えさせた。
お題は「自分が好きなもの」「相手に教えたい観光スポット」「“きっちり”などの副詞」の3つ。
「自分が好きなもの」は別に相手に伝わらなくてもそう困らないが、「相手に教えたい観光スポット」では伝わってくれなければ困るし、「“きっちり”などの副詞」はもう言葉だけでは無理だと思えるくらい表しづらい。
こうしたある種の非日常的な体験は日常における視野を拡げてくれる。
目から鱗が落ちて、以前よりも“見える”ようになった目で見渡し、ハッとする。
今までは意識することもなかったけれど、ふと振り返ってみれば自分の周りにそのような人がたくさんいたことに気づく。自分がこれほど困ったことを日常的にこなしている人がいるのだと。
ロールプレイングはただ単に誰かの真似っこをしてその誰かへの「思いやり」をもつためにやるのではない。そんなのはポーズに過ぎない。
他人がどうこう以前にまず「自分にとって」のこととして認識し、改めて周囲を見渡した先に何が違って見えるか。“その景色を引き受ける”ことを含めてロールプレイングだと私は捉えている。
ロールプレイングを終えて「ユニバーサルデザイン」について知識と体験から考えられるようになったあと、ちょっとしたプレゼン講座。
この日は分科会時間がすごーく長いので間に昼食が入るんだけど、それまでの時間調整としてね。
たいそうなことは言えないから本当に些細なこと。
人は話すときについ体を一方向にだけ向けてしまいがちだけど、そうするとその視界に入らない人が出てくる。視界の外の聞き手は自分に話されているとは思えなくなり、だんだん聞く気が失せてくる。
相手にきちんと話を聞いてもらうためにも体の向きと視線の配り方に留意するようにということ。意外と忘れちゃうんだよねえ
あとは、声の出し方でここまで伝わり方が変わるんだ、と実感してもらうためにあるゲームをやった。
1:「納得した時」
2:「疑問系」
3:「どうでも良さげ」
4:「親しい人物の冗談に対して」
5:「心配だけど相手の言葉を信じる」
6:「発見」
7:「馬鹿っぽい」
8:「不服だけど納得した素振り」
9:「残念そう」
10:「絶望」
全部「そうか」って台詞だけで演じて下さい。
出典:https://twitter.com/ebleco/status/337811784901726208
これはとても盛り上がった。二人一組にして交代しながら相手にどの「そうか」を言っているのか当ててもらうゲームをやった。
ほんと、声だけでも伝わり方は全然違う。平板な口調の発表で聞いてて眠くなっちゃうし、どこが強調したい点なのかも分かりにくい。
相手に伝える、伝わるということがいったいどういうことなのか、どうすればできるのかをなおざりにしたくはないね。
昼食の準備はいよいよ翌日のアウトプットに向けた準備。
な の だ が
交流会初参加者にはこの「アウトプット」なるものがイマイチ分からない。
分科会をやるチューターは複数回参加者であることが多いので知っている。
そうなるとつい全員がアウトプットを知っていることを暗に前提として話を進めてしまう。
これはよくない。このような事態を避ける小さな配慮、足元の配慮が必要だった。
アウトプットとは交流会の集大成として最終日である4日目に、参加した分科会で得られたことを他の分科会の人に披歴する場のこと。
分科会によって班発表だったり個人発表だったりする。模造紙を使うことがほとんどだが、べつにパワーポイントで作っても一向に構わない。
どのような内容をどのように発表するかの全体的な縛りはなく、チューターの裁量で決まる。参加者が一から考えるところもある。
当分科会では最低限の項目だけは与えて、あとは3つに分けて班のなかでの話し合いに委ねた。
以後、分科会はアウトプットまでこの作業が続く。
後半
予定では この時間にリハーサルだったが、とうていそれができる段階には至っていなかった。
アウトプット準備の時間をいかに捻出するかというのは交流会における最大の課題であり、一番難しい問題である。
あらかじめ参考材料となるようにメモを取らせていたとしても、大幅な時間短縮にはつながらない。
チューターがぎっちりと形式を決めてしまえば早いかもしれないが、それでは参加者は分科会に対してあまりに受け身だ*1。
参加者が忙しい一方で、この段階まで来るとチューターは途端に手持無沙汰となる。
アウトプットに向けて悩む参加者らへの介入はやり方が難しい。見守りに徹して、お呼びがかかったら助太刀するくらい。
この時間のチューターに何ができるか、ということは今後の交流会で検討してほしいと思う。
最終的にはなんとか間に合わせることになるのだが、参加者の負担は大きい。
アウトプットで燃え尽き、その後は抜け殻になってしまう者も少なくない。
この限界までの取り組みが充実感を生むという声もあり、それも一理あるが別の方策があるならそちらがいいだろう*2。
交流会最終日(アウトプット2h;分科会3h)
3月に朝の山中でラジオ体操をするのは本当につらい。本当に、、、
ただ、山は美しかった。
アウトプットは発表15分、質疑応答8分、移動2分を1セットとして3回行われた。
こういうときに緊張しないでいるには場数をこなすか、強心臓をもつしかない。
チューターはもう参加者を見守るだけだ。紙に書いたコメントで時間を知らせたり、応援したりするくらい。
発表をチューターとして聞くのは二度目だったのでこちらの余裕はあった。
そこで感じたのは声の出し方、目線の配り方、身振り、頷きがもつ重要性。
なかでも班の他の人が発表しているときに、ただ立っているのではなく頷いてあげることは班発表に一体感を生むだろうと感じた。
そうすることで声を出している人だけでなく、班全体で聴者に語りかけることができるのではないだろうか。
個人として訴えかける方法としてはやはり抑揚や強調がものを言う。
この点、いわゆる「関西弁」の人は強い。「関西弁」はおそらくアクセントのこともあって普通に話してもテンポが生まれやすいのだと思う。
当分科会では模造紙を使った発表だったが、この見せ方や聴者からの見え方も工夫のしがいがあると感じた。
模造紙を仕上げている最中では気づかないこと、人に見せる段階で必要になってくることがある。
紙面上のとある箇所を示すには棒を使った方が指より分かりやすい。指だと紙面に腕がかぶって見えづらくなってしまう。
アウトプットは特に初参加者としては「よーいドン」で場当たり的にやらざるを得ないが、チューターがどれだけ事前にポイントを教えられるかで変わってくる。
それから質疑応答なのだが、質問者の声が小さいことは気になった。
発表者は聴者に伝えようと声を張るが、質問者はただ話すような声量が多い。
質問は他の人にも聞こえるようはっきりと大声で話す方が、全体にとって有益となる。
声が小さい場合は、それを受けた発表者が全員に聞こえる声で質問を繰り返した上で答えればよい。
発表に巻き込んで引き込んで、自分の考えたことを吹き込むためにも何事も無駄にしたくはない。
質問としては「次にどうする?」「明日からどうする?」という内容が挙がった。
これは重要なことで、交流会はあくまで“きっかけ”であり、これを終えてどうするかこそが本題。
発表内容そのものに関してもそうだが、こうしたことを自分言葉でどこまで語れるかということが交流会での成果を示す一つの指標になるだろう。
分科会
最後の時間はもう取り立ててしなければならないことはないので全体の振り返りになる。
どの団体や組織でもどうだろうが、そこ特有の言葉があって交流会では「エモい」がそれにあたる。
エモーショナルを縮めて、形容詞化する「い」をつけた言葉で、端的に言ってしまえば「様々な思いが胸に去来すること、またその様」である。
最後の分科会はまさに「エモい」時間となる。
怒涛の3泊4日中そのほとんどを占める分科会はこうして最後、充実感と疲労感に包まれて時には涙を湛えながら終わる。
今思えば 分科会を通して私は参加者に「愕然と」してほしかった。
いないことにされている人たちがいる。なかったことにされていることがある。
それがいったいどういう結果を招いているか気づいてほしかったのだ。
そうして体験したことの意味を咀嚼して吸収して血肉として、自分の言葉で語れるようになることを、他の誰かが用意した考えでも、ネットに転がっているインスタントな考えでもなく、自分の考えを“自炊”できるようになることを企図した。
他の誰でもない自分の“彫刻刀”でその世界を削り取れるようになることを願った。
人は自分の人生しか生きられないし、その意味ですべてが自分次第なのだから、あとは自分がどうその世界と対峙するかが鍵となる。
そのための道具を授けたかったのだ。
ロスタイム
分科会をつくっていくに当たって特に留意したことがある。
それは意図と目的を必ず明確にすること、言葉の使い方や説明の仕方に気を配ること。
参加者にやらせるワークを作ることが分科会の要だが、それにあたって必ず「なぜ」「何のために」するのか3人で考え、はっきりさせた。
何を思ってそれをさせるのか、どうなってほしいからさせるのか。このような意図と目的を欠いたワークはほぼ確実に頓挫する。
そのことは初めてチューターを務めた第37回で痛感したことだった。
意図と目的がきちんと定まっていれば、望む結果が得られなかったときにその検証ができる。
こう考えて、こうなるようにしたがそうはいかなかった。ではそのズレはいったいどこで生じたのか。
「きちんとやればきちんといく」のだから、そうはならない場合には必ずその原因がある。そして事実あったのだ。
私がこうして長々と*3、しかも一ヶ月以上経ってなおも振り返りと反省ができるのはそれがあってのこと。
言葉の使い方や説明の仕方は、参加者を混乱させないように的確に伝わるよう注意を払った。それはときに助詞一つにも及んだ。相方の2人には面倒事に付き合わせてしまった。
それでも「が」と言うのか「は」と言うのかで文意を大いに変わってくるのだ。
何をどう言うか。言語コミュニケーションが大きな意味合いを占める以上、それを蔑ろにすることはできなかった。
上で“彫刻刀”ということを言ったが、言葉がまさにそれである。
言葉で削り出した世界の一部を私たちは人に見せ、それを理解してもらうことで意思疎通する。
自分の思惑とは離れて相手が受け取った場合、まず疑うべきは自分の腕に間違いはなかったかということ。
完全に意思を通わせることは不可能だからこそ、自分のミスを極限まで減らす。そのために言葉の使い方や説明の仕方には神経を使った。
とまあ、えらそーに書きくさってきたがこんな風に企画立案し実行する経験は第37回でやるまで一度もなかった。
交流会は今まで書いてきたようなところなので結構活動的な人が多く来る。
インターンシップとかボランティアに始まり、団体立ち上げたり引き継いでいたり、留学したり世界一周したり。
何かを動かす、ということに関してはてんでストックがなかったので分科会の相方2人にその役割を担ってもらった。
自分はそれをトンカチで叩いて脆いところはないか確かめたり、パテで補強したりしたくらい。
0から1を生み出すよりも、すでにある1を10にする方が得意なのだ。
それでも分科会を企画立案し実行する一員として完走できたことは確かな自信となった。
もちろん一人だったらこうはいかなかった。しかし、それはそう問題でない。
チューターをやることにした動機を書いた
にもあるように「たとえ苦手なことがあっても、それが得意な人と一緒ならどうってことない」のだ。
私にはできないことができる人は当然いる。そして、その人にはできなくても私ならできることは当然ある。
それをうまく組み合わせて相乗効果を生んで好い結果をもたらせたら“勝ち”なのだ。
政策・情報 学生交流会には第36回で何となく参加しただけだったが、気づけば3回連続で参加しチューターもやった。
交流会はとても具合がいいというか、難易度が程々なので足場とするのはちょうどいい。粗野言い方だが、アホみたいにきつくないし、バカみたいにゆるくもないのだ。
高卒以上の学生であれば別に大学生に限らず参加できるので、興味をもった方は第39回にぜひ*4。
交流会の、その場限りで終わらず、しかも現状に満足しないで常に改善を図ろうとするところが好ましい。参加者同士の交流が、参加回問わず続いていくのもよい。
すでに第39回へ向けて有志のスタッフが動き始めているので陰ながら応援していこう。
俺たちの戦いはここからだ!といったところで筆を擱く。
<(酒)の みつき先生の振り返りは今回で終わりです。今までありがとうございました。>
番外編
分科会をつくる、あるいは運営するに際して参考にした本の紹介。
島宗理『インストラクショナルデザイン』米田出版
人に教えること、それが伝わることを分析して描いた一冊。
教師を目指す人にもおすすめ。
黒木登志夫『知的文章とプレゼンテーション』中公新書
人に考えを端的に伝えるにはどうしたらよいかを解説した一冊。
手法だけでなく、それを裏付ける理屈も書かれているのがよい。
戸部良一他『失敗の本質』中公文庫
企画立案し実行する人は読んでおいて損のない一冊。
私が意図と目的を明確にすることを心掛けたのもこの本に書かれている教訓から。
山本七平『「空気」の研究』文春文庫
KY(空気読めない)という言葉が流行するくらい、日本は「空気」に覆われている。
論理を貫徹させるためにもその「空気」がいかにして醸成されるか知っておく必要がある。
交流会に初参加した人から聞いて面白かったのは「自分は留学経験があるので意見をどんどんぶつけるスタイルだったが、それを日本式のスタイル―人の発言を促すとかそういう場を作る―に慣れるのに苦労した」という感想。
なるほど、そういう違いが見えるのかと。
「空気」を生み、またその「空気」に従ってしまいがちな日本人の心理を分析した一冊。
著者は、自我が確立されないで自我不確実感を抱えることに特徴を見いだす。
阿部彩『弱者の居場所がない社会』講談社現代新書
チューター3人の教科書的一冊。
関根千佳『ユニバーサルデザインのちから』生産性出版
これまたチューター3人の教科書的一冊。
ユニバーサルデザインについて非常に分かりやすく書かれている。
浦光博『排斥と受容の行動科学』サイエンス社
分科会のテーマである「社会的排除/包摂」を異なる視点から見るために選んだ一冊。
生硬な言葉で語られると生々しい人の姿が薄れてしまいがちだが、社会問題はすべてそこで生きる人々の心理的な問題とも関わってくる。