セカイは自分を中心に回る

第38回 政策・情報 学生交流会に行ってきました。

3回連続3度目の参加です。

1年前に開催されたところと同じで場所で、今度は企画を担うチューターとして。

チューターは第37回に引き続き挑戦。

まずはまたチューターをやることにした話から。

  1. 第37回のリベンジ
  2. 提供される立場からする立場へ
  3. 知る・考える・それが人に伝わることの面白さを実感してほしくて
  4. 一人で抱え込まなくてもいいことを伝えたくて
  5. すべてが自分から始まり、そして自分に返ってくることを知ってほしくて

第37回のリベンジ

初めてチューターとして分科会を企画した第37回は正直に言って失敗の連続でした。

全体の見通しがはっきりしないまま、ワークをどうさせるのか、いつまでに何を完了していればいいのか、最後にどうさせるのか・・・そういったことが曖昧なまま当日を迎え、準備不足はすべて露呈しました。

チューターとしての考えしかなく、参加者にどう受け止めさせるかという視点が欠落していたことをまざまざと見せ付けられました。

自分のこと、自分たちのことしか考えていなかったのです。

今回分科会を企画するときはこの失敗を肝に銘じて臨みました。

提供される立場からする立場へ

この交流会の他にもイベントやシンポジウムはたくさんあります。つまり参加者として出向くところがたくさんあるのです。

しかし企画者となると参加者ほど気軽には関われません。尻込みしてしまいがち。

そこで出てくるのが交流会の絶妙な「ほどほど」加減。私のような、学級委員長にも各種実行委員にもなったことがないような人にとっても始めの一歩として「やりたい!やろう!」という気持ちがもてます。

交流会は観光と親睦で終わってしまいがちな短期合宿でなければ、一週間コンを詰めて最後はお偉方に見てもらう長期合宿でもない、3泊4日というちょうどよい日程。

おそらくレベルも万人受けしやすいベーシックなもので、だからこそ100人という規模の人数も集まるのかなと。

どこかしらにただ参加して成果を一人持って帰ってくることに飽きてきた自分にとって交流会は、その「ほどほど」加減もあって企画する側に回ろうという気持ちになれました。

知る・考える・それが人に伝わることの面白さを実感してほしくて

初めて参加した第36回で心の底から実感したのは、何かを知ったり考えたりすること、そしてそれが人に伝えられる・伝わることがなんて楽しいんだろう!ということ。

まさに論語のいう「学びて時に之を習う。また説ばしからずや」

そうか、これはそういうことだったのか!と気づき、その感動をほかの人に伝え、相手もまた感動してくれることは本当に楽しいです。

こういうことがある度に私は「ああ、セカイはなんて楽しいのだろう。このセカイこそが飽きのこない至高の玩具である」と思います。

Life is wonderful.――セカイは驚きに満ちているのです。

皆さんも普段自分の好きなあれこれを人に紹介して、その思いが共有される楽しみを感じていることでしょう。

交流会では密な時間を通して、それを感じてもらう機会を提供する側に是非回りたいと思いました。

そうして、できれば交流会が終わったあとも一緒にあれこれ考えたり話したりできたらいいなーと思ったのです(笑)

一人で抱え込まなくてもいいことを伝えたくて

 分科会の企画書にある「こんなあなたにおすすめ!」にはこう書きました。

  • 「自分ひとりで何でもこなそうとしてしまう人」
  • 「自分ひとりでは何もできないと思っている人」

こういう人には是非来てもらいたかったです。

自分が交流会に参加して実感したことは一人で何でもかんでも頑張る必要はないし、誰かと協力すれば思いがけないことがどんどん生まれる、ということでした。

一人でいるうちは苦手なことっていつまでも苦手なまま。でも他に一人でもそれを得意な人がいたら・・・?

たとえ苦手なことがあっても、それを得意な人と一緒ならどうってことないんです。

お互いの得意分野を存分に発揮して、苦手なところは埋めていって、そうすれば一人だけでは達し得なかった境地に辿りつけます。

そしてそれによって得られた成果と自信はこの先自分ひとりで何かやっていく際の助けにもなります。

 

「人は一人で死んでいくけど 一人で生きていけない」(坂本真綾『ユッカ』)

「全部自分のせい そんな被害妄想 それは偽善の想像論」(新谷良子『ロストシンフォニー』)

 

ちょっと小ざかしい話をすると、人間って一人でも"独り”ではないんです。言葉や記憶を通して色んなことをアタマのなかに蓄えている。一人で何でもできてすごい、と思える人はたぶんアタマの中にたくさんの人や物事が詰まっているからこそなんでしょう。

すべてが自分から始まり、そして自分に返ってくることを知ってほしくて

「セカイは自分を中心に回る」のです。

My world is mine.であると同時にYour worlds are yours.

私のモットーは「All depends on me.」であると何度か言っていますが、すべては自分次第なのはそれが私のセカイだからです。

そこにおいて私は主人公です。どんなにすごい人でも脇役だし、他の人に主役の座を、自分の人生を明け渡すなんてことはできない。

そしてこのことを私は、すべての人においてそれぞれ当てはまることだと思っています。

あなたのセカイはあなたを中心に回り、他の誰でもなくあなたが主人公です。

自分が中心にあるからこそ、他の人を考慮することも結局は自分に返ってくるのだと分科会を通して、明確には意識せずとも知ってほしかったのです。

分科会では「社会的包摂/排除」をテーマとし、「社会的包摂」の具体案として「ユニバーサルデザイン」を置きました。

分科会では「社会的包摂」=「例外をなくすこと」とし、もし自分や友人あるいは家族がその「例外」とされて「排除」されてしまったらというような想像をしてもらえるようにワークを組み立てていきました。

「私は嫌だ」→「そうならないように考える」→「ほかの人も助かる」→「私も助かる」

今回の交流会のコンセプト「自分発 あなた経由で 社会を変える」に見事合致するのではないかと内心鼻が高いです(笑)

 

自分のため!ということよりも誰かのため!ということがもてはやされるきらいがありますが、私はそんなの"おためごかし”に過ぎないと思っています。

セカイの中心である自分を欠いてすることなんて空虚にすぎやしませんか。

 

とまあ、チューターをやることにした経緯をつらつら綴ってきましたが案外長くなってきたので、いったんここで筆を擱きます。

実際に分科会をまわしてみて感じたこと、交流会を通して思ったことはまたの機会に。