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あの日やり遂げた分科会の振り返りを僕はまだしていない(前篇)

第38回政策・情報 学生交流会にて開いた分科会についての振り返りと反省。

(書こう書こうと思っていたらもうこんなに日が経っていた。いやはや…)

分科会のテーマは「社会的排除/包摂

この言葉は、若年の失業者が増えた1980年代のフランスで唱えられ始めた専門用語。

テーマとするにあたって様々な定義を見てみたが、どれも生硬で取っつきにくいものであったため自分たちで定義を置いた。

(なかなか骨の折れる作業だった)

それがこちら。

社会的排除とは~
心身のハンディや社会的な不利を抱えた人が制度や人々の無理解・偏見によって除け者にされたり、いないものとされていたりする状況。

~社会的包摂とは~
社会的排除をなくす、あるいは起こさないための考え方。

 

分科会の目標としては、

他人を自分と無関係な人と切り捨ててしまうのではなく広く自分事として捉えられるようになること、

かつそうすることがなぜ必要かを説明できるようになること。

この2つを置いた。

福祉は誰かのためである以前にまず自分のためである

ということを自分たちは参加者に伝えたかったし、それが伝わってほしかったのだ。*1

社会的排除/包摂」の理解はあくまでそのための手段であり、これを目的としないことに注意を払った。

このことは、社会的包摂の具体策として「ユニバーサルデザイン」に関しても同様。*2

 

 自分を置き去りにした「誰かのため」って胡散臭すぎて好きじゃないんだよなぁ

そういう人を見ると「誰かのための“あなた”自身はどこにいるの?」と問いかけずにはいられない。

 

さて、そろそろ本題の振り返りと反省に入ろう。

 

 交流会一日目(前半75min;後半120min)

前半

使用する部屋が和室であったため机と座布団を出さねばならなかったのだが、この時間を失念していた。

限りある時間をこのようなことに費やしてしまうのはもったいない。

ワークをやるとして、実際そこで何が起きるのか必要となるのかということをきっちり詰めておかないといけない。

 

初めに自己紹介をやったのだがこれにかかる時間を少なく見積もりすぎていた。

一人2分というのはとうてい足りない。

また自己紹介させるにあたっての項目は紙面で伝えられるよう準備しておくべきだった。スムースに進行させるために必要なこと。

良かった点としては参加者に前もって訊いていた「好きな曲」を活用したことで参加者がリラックスした点。

選んだ曲やその理由から人となりが垣間見れるし、参加者同士仲良くなる際のきっかけにもなる。

 

説明手順の問題もあった。

2班に分かれて質問を作成させたのだが、この際それをもう一方の班員に答えさせるということをあらかじめ伝えていなかった。

自分たちが答えなくてもいいと知っていればもっとえげつない質問を作ったのに、という声があったようにルールは事前にすべて伝えておいた方が良い。

 

後半

タイムシフトがおかしくなっていたことに当日気がつき、急きょ変更した。

 120minだったところを150minとして組んでいたことを見落としていた。

一日目はすべて参加者が打ち解ける時間としていたため影響は小さかったことが不幸中の幸い。

実際の動きを失念していたこととも通じるが、事前確認が不徹底だった。

 

参加者を打ち解けさせるワークでは相手を知る・自分で考える・相手と話すといったことが十分なレベルで達成された。

欲張るとしたら分科会のコンセプトと絡めたワーク作りをするとより良かった。

 

参加者にお土産を持ってきてもらい、それを紹介していってもらうことはなかなか盛り上がった。

交流会の特徴は様々な出身地の人がいることで、普段は聞くことのない”地元”の話も聞ける点にある。

お土産は交流会3泊4日間を通して活躍した。

 

交流会二日目(前半210min;後半75min)

前半

朝早い(8時半)こともあって体を動かしてウォーミングアップした。

よーいドンで分科会を始めてしまっては参加者も”肉離れ”を起こしかねない。

分科会趣旨説明のあと本格的にワークを始めていった。

お題を出し、それがどういう問題か、誰にとって困ることかなどといったことを各班で書き出してもらった。

まずは「財布を落とした」ことについて。

いきなり社会問題とされていることを投げても参加者はやりづらいだろうから頭の準備運動として。

次に「ブラック企業」について。

最近ニュースやネットで見かけるが、真正面から考えることはなかったであろう題材を選んだ。

最後は「貧困」について。

実のところ日本で顕在化してきているが身近には感じられていないことを考えてもらった。

このように徐々に大きな(それだけ実感の薄い)問題について掘り下げさせることで、

社会問題ってよく言われているけどそれは結局何が問題なの?

ということを考えるきっかけとした。

射抜くべき的を明確にした、とも言えるだろう。

 

このあとお土産を食べる休憩時間を入れ、それぞれの地域を身近に感じてもらったところで参加者の出身地で起きた事件や労働災害を紹介した。

社会で問題が起きている、と言われてもそれが自分の近いところで起きているとまでは思えないのが正直なところ。

参加者により問題を明確に感じ取ってもらうためにあえて出身地の事例を示した。

 

事例集めはこれまたなかなか苦労した作業で、間に合わせで用意した事例はやはり参加者にその意図が伝わりきらなかった。

交流会を通して何度も実感したことだが「きちんとやれば、きちんといく。うやむやにやれば、うやむやになる」

 

参加者同士で「問題とされていることの何が問題か」を論じるなかで問題の裏側やそこから波及すること、連想されることを出していたのは頼もしかった。

こちらが意図したことが参加者に伝わっている様子を見ることはチューター冥利に尽きる。

 

一連のワークの締めとして、予定にはなかったがとある話をした。

それはアイルランド人監督の撮った「自殺者1万人を救う戦い」の終わりに出てくる。

日本の自殺問題に取り組んでいた監督は、隣に住んでいた老婆が何度も訪ねてくることを疎ましく思い、しまいには居留守を使うようになった。

そうしてしばらくしたのち、監督は彼女が部屋で自殺したことを知る。

彼女は自殺してしまうほどの孤独を抱えていた。しかし、よもや自分の隣人が…。

それは問題を「身近」に捉えることの痛切な重要さと、「いない」と考えることの残酷さを同時に象徴していた。

 

椅子に座って机に向かう「静」のワークが終わった次は「動」のワークとしてロールプレイングをやった。

参加者に対してランダムに配役し、班に分かれてそれぞれ1つの状況についてさまざまな視点から考えてもらった。

このとき役回りが似たり寄ったりな班が出てしまった。これに関しては回避策を講じておくべきだった。

一斉にくじを引かせるのではなく、役がばらけたくじを3セットに分け、それを各班に引かせればこのような事態にはならなかっただろう。

 

ロールプレイングの意義は何よりも「普段の自分には何ともないことが違って見える」ことである。

役としての“私”が困ることをどう解消・回避するか。

このようにして自分事を拡張させること、つまり自分が困りそうなことを見つけることで、社会やそこでの問題により敏感になることができる。

他の人が困ることを自分の身に置き換えて想像するのもいいが、身を以て体感する方が手っ取り早い。

そこから今度は逆に自分が困りそうなことが他の人も困ることではないか、と考えられるようになればなお良い。

自分を中心に置いてそこから物事を捉えた方が実感はわく。

 

ロールプレイングのときに顕著だったのが、参加者に対する距離の取り方の難しさ。

参加者が困っているとき、立ち往生しているときにどこまで助け舟を出すか、それをどう出すかということは難しい。

あとで気づいたことだが、これはチューターという立場で参加者に遇する限りは解決しない。

いったん参加者の立場に降りて同じ目線で見なければ困りそうなところ、滞りそうなところは見えてこない。*3

どこが詰まりの原因になっているかを見た上でないと、適切に参加者へ助け舟を出せないのだ。

チューターの望む結果に辿りつかせるだけなら答えを教えればいいだろう。

しかし、なんらかの結果に辿りつく過程こそが大事と見るなら答えを早々に教えてはいけない。 

 

ロールプレイングを終えたあとは班員同士で感想を共有しあい、さらに他の班の感想も共有することで「自分事」の枠を拡げることを促した。

 

後半

ロールプレイングをさせた意図と目的を考えてもらった。

これはチューターにとってはこれまで成果確認であり、参加者にとっては自分がしたことを振り返って整理する機会となる。*4

それを見ると、ほとんどこちらが期待した通りの地点に参加者が到達しており、とても嬉しかった。

 

1日目と2日目を終えて、分科会は非常に手応えの感じられるものであった。

3日目と最終日、そして総括については稿を改めようと思う。

 

最後に分科会とは別に交流会スタッフが用意する全体交流企画に触れて終わろう。

第38回のコンセプトである

「自分発 あなた経由で 社会を変える」

〜 I think × We discuss → Next Action 〜 

これを実践するのが分科会であり、全体交流企画となる。

前者は全体通してだが後者は2日目にあって、充実した時間を過ごせた。

自分/相手はどう思う?考える?それはどういうこと?という対話を通して発見や行動を導いた。

考えをはき出すこと/引き出すこと、外への発散/内への収束のバランスが企画全体で取れていたように思う。

なによりセカイはシンプルだと気づけたことは大きい。

 それというのも「充実とは何か?」を班の人と考えたおり、色んなことを考えては挙げ、検討したがもやもやした。しかし終わりの方で「充実しているときって自分を客観視している気がする」という一言をきっかけにすべてスッキリしたのだ。

つまり、充実とは自分で自分を「いい!」と言えることだと。

自分で自分を褒められるのは自分だけなのだ。

「きちんとやれば~」もそうだが、今回の交流会ではそういったシンプルさに到達できた。

初めて参加した36回でもそうだったが、こうした一つ突き抜けた考えに辿りつけることはとても楽しい

私が交流会に魅せられたのはこういう体験があってこそと言えよう。

 

*1:世間一般的な文脈で使われている「福祉」はむしろ「奉仕」の意に近いと思われる。誤解させないために福祉という単語は分科会で一切用いないことにした

*2:こうした考えを使うことが自分たちにとって都合が良かった、つまり説明がしやすかったということ。手段が目的化しては本末転倒。

*3:言うなれば、参加者とチューターの立場を行き来する「踏み台昇降」が大事。

*4:交流会は最終日の4日目に他の分科会の人たちに向けてのアウトプットがある。その準備をする際、手元に材料があった方がきっとやりやすいだろうということで用意した。