速ければそれでいいのか?

 現代は時間が加速度的に速くなっていると言える。それは自動車や電車に飛行機の登場、情報通信の発達によってかつては考えられなかったほどの速さで日々を過ごすことである。これらを可能にしてきた「もっと速く」という目標は実は“未来をいますぐここに”という欲望である。歩いて一時間先の未来が自動車であれば十分後にやってくる。われわれはそうして未来へ前のめっている。速さとは限られた時間のうちにどれだけのことを詰め込めるかとして捉えられる。それは算数で速さを求めるときに道のりを時間で割ることからも明らかである。ある時間に含まれる道のりの長さが増せば増すほど、それが“速い”ということになる。

 たしかに寿命のあるわれわれにとって時間は限られているから、その間に“すこしでも先の未来(道のり)”を意欲すること自体は不当ではない。もっと速くして、もっとたくさんのことを有限の人生に詰め込みたい――しかしこれが度を過ぎると、時間制限のある食べ放題で“元を取る”ために満腹で苦しくなっても食べたがることと本質的に変わらないのではないだろうか。

 目まぐるしく移り変わる社会のなかで生きること、いわば一瞬のなかにありったけの未来が詰まった人生は人々に“止まることは損”だという意識をもたせかねない。一日あれば海外へだって行ける、一時間あれば溜まった仕事が片付く、一分あれば何でもできる……こうしてできることが詰まった時間を手放すことの惜しさを、現代の“速さ”は人々に抱かせ、少しでも休んだら“元が取れない”と思わせる。いざ休むときにも休むのにかけた時間以上の休みを求める。つまり、“休むのに努めさえ”する。象徴的に言えば、われわれは時間制限のある“生き放題”で元を取るために生き急いで苦しくなっても生きたがっているのだ。食べ放題の例と同様に、それはもう生きることがそれとは別の目的の手段と化してしまっている。食べ過ぎの末路は嘔吐や体調不良であるが、生き急ぎ過ぎの末路は燃え尽きや不意の死である。

 時間がどうしようもなく過ぎてしまうから、われわれは一秒でも経過することに惜しさを感じ取ってしまう。だがそれは“思い詰めすぎ”である。たとえば目の前にある料理が食べてしまえばなくなるからといって、ではそれをもっと調達しようなどと思うだろうか。そのようなことはしないはずである。そのときにわれわれがすることといったら、その料理を大事に味わって食べることだろう。食べるとなくなってしまうが、それでも食べたい。食べるとなくなってしまう、だからこそ“時間をかけて”食べる。それが満足をもたらし、ときには贅沢を感じさせる。生きることにおいても同様である。何をしてもしなくても過ぎてしまうからできるだけのことができるよう速さを求めるのではなく、欲することに時間をかけて取り組むことが本来の豊かさであろう。時間が限られているからこそ、それをいかに切り詰めるかではなくて、どれだけかけられるかが本当の意味で時間を過ごすことなのだ。

死は当人のものではない。安楽死と尊厳死。

死が“終わり”とみなされるようになったのはいつからなのだろう。

思えば死はいつでも他者のものであった。自らが生きるなかで他者の死を目の当たりにする、あるいは耳にすることはあっても、自らの死を経験することはない。訃報はいつでも他者のもとへ届けられる。自分に死が訪れるとき、自分はもういない。自分の死の受け取り手は自分ではなく、他者である。私が死んでいると認める他者に、私の死は受け止められる。

私は生きていると言うように私は死んでいるとは言えない。それを発する私はもはやいないのだから。私は生まれてから私のすべてをこの身に享受してきたが、死だけは受け取ることができない。実のところ死が“終わり”であるのは私にとってではなく、私の死を受け止める他者にとってである。他者と私の相互性が終わるのだ。私が他者と新しく関わることはもはやない。まだ生きる他者が自らのうちで、かつて私と関わったことに関わるだけである。

私の死は私とともに生きた他者にとっての“終わり”なのである。私が死ぬというより、死ぬのは私といった方が正しい。他者はまだ生きる。

死が私の“終わり”でないことは以上から明らかである。そして死は無でもない。死は生の停止であるだけで、生そのものを根こそぎにすることはない。そもそも生あっての死である。その死がどうして生を無に帰すというのか。それは死後の救済という詐欺を信じ込ませるための方便にすぎない。私の死は私のものではないのだから、死後に私の救済などありうべくもないのだ。私の死後における他者の救済に限れば、まだあり得るにしても。死が無であるなどと嘯くことは他者の死を受け取り拒否した不届き物の証左に過ぎない。

 

先だってある大学で行われた哲学対話に参加したのだが、そのときのテーマが「尊厳死」だった。

しかし実際は他者が当人の死を決めること、つまりは(消極的)安楽死の是非についてだった。

その場合、まだ息はしている当人を自分が死なせてしまったのか、もっと言うと殺してしまったのかという疑念が首をもたげる。

テーマの提供者もそのことがもっとも気にかかっていたのだった。

死なせることと殺すことの差異はどこからくるのか。人の命を自分が決めていいものなのか。息があっても回復の見込みはなく、ただ時間の経過を待つしかないこととどう向き合うのか。

 

ここで死について分類をしておきたい。それは身体的、社会的、精神的の3つである。

通常われわれが思う死がここでの身体的死である。社会的死とはいわば社会の居場所がないこと、誰にも知られない状態である。そして精神的死は人であれば可能と思われることを為しえない状態である。

すでに見たように死は“終わり”なのではなくて、関係性の一端が切れることであった。いずれも、もはやその人と相互に関わることができないのを表す。

 

これを踏まえると消極的安楽死を考えざるを得ないときとは精神的死、すなわち意思の疎通がとれない場合であり、身体的死が刻一刻と差し迫る状況である。

ここで一番の問題となりえるのが社会的死である。というのも、当人の安楽死を決断するほどの関係性の近さがあるからである。

その人がいる限りは自分にとっての、その人にとっての関係がかろうじて生きている。その相互関係に“終わり”をもたらすことが消極的安楽死でもっとも深刻なのだ。

だが深刻であれど悲惨とは必ずしも言えない。

消極的安楽死においては当人の死を周りが受け止める準備ができる。繰り返しになるが、死は当人のものなのではない。まして他者のものでもない。他者が当人を死なせること、つまり当人に我が物顔で死をもたらすことは殺人であるが消極的安楽死はそうでない。

どこからともなく、しかし確実に当人にやってくる死をいかに受け止めるかを決めることが消極的安楽死なのである。唯一死なせるものがあるとしたら、それは社会的なもの、相手からの関係のみである。こと切れて垂れた糸を大事に手繰り寄せること、それが当人にとっての手向けともなる。

 

尊厳死安楽死と打って変わって特別な様相を呈する。それは自らのでない死に対し、しかしそれが確かに来ることを前にして周囲への死の届き方を決める行為である。日常的にはわれわれが忘れている死の存在と正面から向き合うのみならず、それが届く先まで見据えたその覚悟に尊厳が宿るのだ。

けっして自らの死と思いなしてそれを装飾するものであってはならない。死を自らのものだと思い込んで、逃れられないのならいっそ飛び込むというのでもいけない。それは自殺と変わらない。

自殺は死を我が物顔で自らに振る舞うことである。われわれは誰も死を持ってなどいないのに。なお断りを入れておくが、これは自殺の批判であって自殺者への言及ではない。

尊厳死とはいっても死それ自体には低級も高級もありはしない。あるのはただ、いずれ来る死との向き合い方のみである。

“豊か”になってなんでも持てると思うようにさえなってきたわれわれは死すらそのように捉えるが、それは文字通り身を亡ぼすほどの誤りである。

 

 

「就活」なんてクソくらえと、酒を飲んでいた

2013年は12月1日が「就活」解禁日だった。

今回の記事では一年前を振り返って、なぜ当時の私が就職活動をしなかったのかを羅列したい。

私はあのとき友人らに声をかけて11月30日の夜から飲み会をしていた。

「就活」なんてクソくらえと。

就職活動が始まっては気軽に集まれもしないだろうからというわけでの飲み会だった。

私自身は大学院進学をぼんやりと考えていた。大学院に何をしに行くのかということは考えているようで考えていなかった。いまもって明白に応答できない。明白に、よりも厳密に、だろうか。

そうして今日になるまで一度も就職活動をしていない私だが、もし就くならばワインを扱う職種がいいと思っていた。

ワイン好きが高じてワインショップでアルバイトをしたこともあった。そこでワインに心底魅了された。

それでもワインを扱う就職活動をしなかったのは、きっと物足りなさを感じると思ったから。「問題」を考えなくなることへの物足りなさ。

世の中で起きていること、日常で見聞きすること、そういったほとんどありとあらゆることに対して私は「これはいったい何だろう」と考える癖がある。

ワインにしても、あれがここまで人を惹きつけるのは何の故あってなのだろうと。ひとつ手前で立ち止まって、起きていることの不思議を思わずにはいられない。

そういったことがあるものだから、大学院に進んで「問題」を問い続けることの方が性に合っていそうな気がしたのだ。いわゆる「就活」のように疑問をはさむ余地なく、むしろ疑問を抱いた途端にやっていられなくなることは端からできなかった。

 

私には、できなさそうなことはしない、という一貫した行動原理がある。原理だなんて大げさだと思うかもしれない。けれど、たとえば電話をするときには必ず事前に会話を想定する。それができそうだ、となってから電話をかける。毎回それをしなければかけらないので私は気が重い。誰もが何の気なしにやっているであろう電話ですらこうなのだ。このことは私に染みついている。

「就活」なんて、とてもじゃないができなさそうだ。就職して問うことをやめるなんて、できなさそうだ。

いまでは進学なんて、できなさそうだと、日に何度も思う。

ときにはこのさき生きていくことだって、できなさそうだと、ふいに頭をよぎる。

そうやって一年経ってみて、私にできることは何一つ増えていなかった。できなさそうなことは輪郭を増して、できないことに着々と近づいていっている。

できなさそうと思うからには、それなりに望めばできるだろうという思い込みがある。

できないのであれば、やれないということになる。

できなさそうであれば、やらないということになる。

やらないというからには、やれるということになる。

私は問うことをやめたくないと思った。できることを奪われたくないと思った。

 

いまになって、というより、これを書いている間に気づいたことは、問うことそれ自体はなんら用意なくできるということだった。

問いを解くことには何かしら要る。紙にペン、机やいす。けれど問いを考えることは何も伴わない。

ただそこにいて、ただ何かに対するだけで、ただ浮かび上がってくる。それだけ。

私はこれまでの問いのほとんどを文章にしていない。ペンをとらなかったのだ。

浮かんだ断片の積み重ねとさえ言えない散乱が私のあり様だった。

私には人に見せられる作品がとんとない。あるいは功績と言ってもいい。

作品にはたいてい完成がともない、完成には評価がつく。私は断片についての反応はもっているからその場しのぎならできる。けれど、私を代表する作品も功績もない私には面と向かって耐えうるものがない。いつでもボロが出る。

問うことしかできず、それをまとめあげることをしなかった私にとって、問いが奪われることは何もかも奪われるのと同じだった。

自分がどこまで問うたのかを確認する術をもたない私が問うのをやめてしまったら、かつて問うていたことまでもが霧散してしまう。

 

私はここ半年以上ずっと、自分が何も持っていないことに悩んできた。考えることだけは人一倍してきたはずだったが、形になっていない以上何もないことと大差なかった。

一年前の私は、たしかに持っているものがあって、それに磨きをかけて、望むところにかなえるのだと思っていた。

しかし、持っていることなどなかったのだ。

私は原稿用紙を前にしてただ腕組みをしていただけだった。書き上げた原稿などひとつもありはしない。構想を語るばかりで本文はなく、人に見せることも見てもらうこともできない。

かつて小説を書こうとしたことがある。設定や人物をそれなりに創った。だがそれも、書けなさそうだとやめてしまった。

できそうだという算段がつけてからでないとやらないということは、いつまでもできることしかやらないということ。

投げ打つとか無我夢中といったことが私はずっとできないでいる。

いまできることを捨てられないのだ。それになによりいまの自分を。

「就活」というのはある意味でいまの自分を捨てて、「社会人」という新しい自分を授かりに行く過程でもある。

私は捨てられなかったし、それでいて新しい自分は自分で欲しかった。欲しがっても掴み取ろうとはしなかった。

それで今日2014年12月1日に、私は何も変わらないままで一年の経過を迎えた。

2014年に1度のボジョレー・ヌーヴォーを楽しもう

   フレッシュさが多彩な芳香を引き立てており、タンニンは繊細で完璧に溶け込み、絹のような舌触り。2014年はボジョレーのためにあったようなヴィンテージ!*1

これが今年のボジョレー・ヌーヴォーへのコメント。

ボジョレー委員会から毎年コメントが出ている。こちらが大元(英語版

THE 2014 VINTAGE: Elegance, gourmandise and great balance...... A most promising vintage!*2

強気なのはいつものことだが今年のボジョレー・ヌーヴォーは確かに美味しい!

2012年に天候不良に見舞われてとても苦労したことを思うと2014年の出来の良さが嬉しい。

 2010年から今年のものまで5年分飲み比べてもそう感じた。

f:id:AlldependsonMe:20141123192333j:plain

ずらずらっと全部ボジョレー地方のワイン*3

全部で9本あるが、このなかでボジョレー・ヌーヴォーなのは7本。

ボジョレー・ヌーヴォー を名乗れるのは赤だけ。さらにボジョレー地方のワインでも格上のものはヌーヴォーを仕込むことができない。他の地域と同様に通常のワインとして出荷する。

9本のなかだとポテル・アヴィロンのモルゴン(左から3番目)がそう。

 

さすがにこれだけの量を一人で飲むわけはなく、友人たちと飲んだ。

毎年ボジョレー・ヌーヴォーが解禁したらいろいろ集めて飲むことにしている。ワイン好きには毛嫌いする人もいるが、私はお祭りとして楽しんでいる。

なにより冷遇を強いられたガメイとボジョレー地方がこれだけ脚光を浴びていること、その努力をしてきた人たちに敬意を表して。

どうしてこれだけ盛り上がるようになったのかはサントリーのページに詳しい。

ジョルジュ デュブッフ50周年|ジョルジュ デュブッフ ボジョレーヌーヴォー サントリー

最近、日本の農業をこれからどうするかといった話を聞くが、ワインを参考にしたらどうかと思っている。あれだけ成功した農産物は類を見ないのではないだろうか。

高く売れることよりも、高くてもお金を出す人がいるということがワインの特徴。いわば作り手と歴史、それを生みだした環境に対する尊敬の念がワインを支えている。

ボジョレー・ヌーヴォーを取り上げたこういうビジネス記事もある。

ボジョレーはなぜ儲かる?低級ワインを世界的ブランドへ転換、驚愕のビジネスモデル | ビジネスジャーナル 

 

さて話を戻すと友人とは木曜と金曜に飲んだ。料理はもちろんボジョレーに合わせて。 

一日目はパプリカのマリネ、きのことジャガイモのガレット、豚肉の紅茶煮、ぶなしめじと舞茸のソテー、鯖のパプリカ煮、最後に鮭とねぎのパスタ。

二日目はバーニャカウダ、舞茸とエリンギのソテー、牛ホルモンと豚レバーのサラダ、ミニトマトの豚バラ巻き、メインに鶏むね肉のマッシュポテト包み。

参考にしたレシピは


タカムラ ワイン ハウス/ボジョレー・ヌーヴォー2012を楽しむおすすめレシピご紹介


サントリー ワイン スクエア |ワインと合うレシピ


ボジョレーに合うレシピ|オーガニックワイン専門店 マヴィ

チーズはレッドチェダーと十勝スマートチーズを合わせた。 十勝のは特にサントリーが販売するジョルジュ・デュブッフ(左から4番目)と相性抜群!

ジョルジュ・デュブッフは甘さが他のものより強いのでそれが合ったのかもしれない。豚肉の紅茶煮をつくる際の漬けダレにも使ったが八角といい相乗効果だった。


明治北海道十勝スマートチーズ | 明治北海道十勝チーズ商品 | 明治北海道十勝 | 株式会社 明治

 

ここからはワインの味の話。

ドメーヌ・ドゥ・ラ・マドンヌ (右から3番目)は満場一致で美味しかった。これはヌーヴォー特有の作り方をしていない。あの特有のイチゴやバナナの香りは製法によるもの。

マセラシオン・カルボニクなどの炭酸ガスを使った製法が一般的だが、酒屋さんで聞いた話ではあのガスをきちんと取り除けば特有の香りがしなくなるそう。

ボジョレー・ヌーヴォーは香りが甘いわりに味は酸のある辛口なのでギャップが生じやすい。

このマドンヌは焦がし醤油に似たにおいがして、なめらかな舌触りと上品な味わいだった。約3000円なので安くはないが、しっかりとクオリティを求める場合には是非おすすめしたい

ボジョレー=薄くてまずい、という先入観を覆してくれると思う。

また2010年のドメーヌ・デュ・ペルショワ(左から4番目)も美味しかった。

たまたまネットで安く見つけて買ったものだが、ヴィンテージのよさもあってか落ち着いたまとまりのある味だった。マドンヌもそうだが年齢のいったブドウから作られているので凝縮感がある。

早飲みで熟成に適さないとされるボジョレー・ヌーヴォーでも作り手によっては数年経っても美味しい。時期が過ぎたということで安くなっていることもあるので有名銘柄を見つけたら買ってみるのも面白いだろう。

さて2012年はあのポジティブ全開のコメントすら鳴りを潜める年だった。

ルイ・ジャドは相当力のあるワイナリーだが開けたての2012年(左から5番目)は飲んだ瞬間に「アカン」と。味がしないというのが正直なところだった。

それでも時間が経つと全然変わって、ブラインドテイスティングをしたときにマドンヌと間違うほどだった。第一印象で終わりにしないで待ってみるのもワインを愉しむコツだなあと改めて。

同じルイ・ジャドつながりで言うとロゼが大好評だった。2009年ものなので5年経っているが長熟向きのヴィンテージだからか味はへこたれていなかった。

ロゼも軽くて薄いものが多い印象だが、これは自然な甘みのなかに厚みがあって飲んだ感のあるものだった。

そして9本のなかで別格だったのがモルゴン!さすがボジョレー地方のなかでももっともしっかりした味わいとされるだけのことはあり、しかも絶賛されたヴィンテージの2005年もの。

香りからして一線を画し、口に含んだ瞬間にボジョレーのイメージを覆す。色もずっと濃くて、深みがある。ピノ・ノワールと間違えても不思議じゃない。

f:id:AlldependsonMe:20141123203832j:plain

今回飲んだモルゴンのようにボジョレー地方にある村の名前はほとんど広まっていないと思われる。

これを買った酒屋でも輸入会社は仕入れづらいだろうと言っていた。なにせボジョレーと言えば敬遠されて、モルゴンと言えば?を向けられる。

毎年話題になるボジョレー・ヌーヴォーにしても何がなんやらという印象があるだろう。こんなこともあったようだ。

ボジョレー・ヌーボー解禁の日にとあるバーにて - Togetterまとめ

笑えるようで笑えない。私もワインショップで働くまでは品種も何もほとんど知らなかった。

 

こんな風に私がボジョレー祭りを開くのは友人にもワインが好きになってほしい思いから。難しいことは知っている人間に任せて、まずは飲んで美味しいものに出会うこと。

二日で8人にワインを飲んでもらったけれど、それぞれ好きな味があったようで何より。いつもより値の張る宅飲みに付き合ってもらえてありがたかった。

ちょうど金曜は友人の誕生日でもあったのでお祝いにシリル・アロンソのスパークリングを開けた。


【楽天市場】PUR ?ポワン ダンテロガシオン 750ml シリル・アロンソ:MOAI

口のなかでふんわり溶ける甘口で非常に美味しい。恵比寿のワイン屋でシリル・アロンソの来日イベントがあった際に試飲して購入した。

こちらもボジョレー・ヌーヴォーと同じ、ガメイを使ったもの。ガメイひとつ使ってもワインの味わいはまったく異なる。ちなみにガメイとはブドウの名前。

田崎真也氏曰く*4

特徴としては、ガーネットの色調が濃く、香りが華やかで、カシスやブラックベリーのコンポートやスミレの花、ほのかに甘草のようなスパイスの香りがあり、味わいはまろやかでふくよかな果実味から、広がりはバランスがよく、アフターに甘苦い印象のタンニンを感じます。 

 言われてみればそんな気も・・・?ワインの香りはそれまで嗅いだことのあるにおいからしか想像できないのでいつも表現が偏ってしまう。

他の人と飲むことでそれを補うこともできる。前回も書いたが ワイン、それもヌーヴォーのようにお祭り要素があるものは人と飲んだ方がいい。それをネタに会話が弾むし、初物とあって気分も弾む。


日本ワインの新酒やいかに。 - ここに広告塔を建てよう

楽しく飲みながらどんな香りがするとか味がするとか好きに言って楽しむのも一興。

ボジョレー・ヌーヴォーは解禁日かその直後しかほとんど飲まない。つまり一年に一度きり。せっかくの機会だもの、わいわい盛り上がりたい!

*1: 引用元:http://www.enoteca.co.jp/bjn/index.html

*2:引用元: Beaujolais official website. Beaujolais wines grape variety : the Gamay.

*3:左から 

ルイ・ジャド ボジョレー ロゼ 2009、ポテル・アヴィロン モルゴン コート・デュ・ピュイV.V. 2005、ドメーヌ・デュ・ペルショワ ボジョレー ヴィエイユ・ヴィーニュ 2010、ジョルジュ・デュブッフ ボジョレー 2011、ルイ・ジャド ボジョレー ヴィラージュ コンボー・ジャック 2012、アンリ・フェッシー ボジョレー・ヴィラージュ 2013、ドメーヌ・ドゥ・ラ・マドンヌ ボジョレー・ヴィラージュV.V. 2014、ギュイシャル・ド・ペロー ボジョレー・ヴィラージュ 2014、フランソワ・フッシェ ボジョレー・ヌーヴォー 2014

*4:田崎真也のワインを愉しむ

日本ワインの新酒やいかに。

今週木曜日には毎年恒例のボジョレー・ヌーヴォーが解禁。

11月に入るあたりからフランスに限らず各国の新酒がリリースされる。

イタリアのノヴェッロやオーストリアホイリゲ、そして日本。

今回初めて日本の新酒を飲んだのでその感想をば。

 

赤ワイン/御坂 マスカット・ベリーA 2013年| 本坊酒造株式会社

鹿児島に本社を置く本坊酒造のワイン部門マルスワインがリリースする赤の新酒。

リンク先は去年のだが飲んだのはもちろん2014年。

お店の人曰く、酸がたっているとのこと。

香りはシンプルで口に含んだ最初の印象はどことなくブドウジュースっぽさがある。

甘いわけではなくて渋みのすくないフレッシュな味わい。余韻に酸の感じがよく残る。

ボトルでじっくり付き合うというよりもグラスで気軽に楽しむタイプ。

赤だがライトボディなので合わせる料理はあっさりしたものがよさそう。

 

ルガーノ甲州2014 勝沼醸造株式会社

日本固有のブドウ品種である甲州に特に力を入れている勝沼醸造の白の新酒。

どうやら今年はあまり赤用ブドウの出来がよくないらしく、白だけの販売。

フルーティーな香りで味わいにも果実感があり、酸はそこまで強くない。

去年のものも飲んでいるお店の人によると質はずっとよく、洋ナシの香りが特徴的とのこと。

口のなかで風味が広がるので飲んでいて面白い。

料理の付け合わせのレモンを口に含んでから飲んだところ甘みが感じられて相性のよさを感じさせた。

 

新酒を飲んで感じたのは一人よりも複数で飲む方が楽しそうということ。

今年のブドウの出来がどうか知る、あるいは初物をいただく祝いの意味でも他の人と印象を語り合うのがいいかなーと。

ボジョレー・ヌーヴォーも割り勘で何本か買ってあれこれ飲み比べしてみるとより味わえるだろう。

飲み比べを初めて3年目になるが今年は過去のものとの比較をしてみようということで、一番古いもので2010年のボジョレーを買ってある。赤ではないが2009年のロゼも。

とあるワインショップではボジョレー・ヌーヴォーは一ヵ月くらい寝かせてクリスマスあたりに飲むのがちょうどいいと言っていた。

輸送や陳列によるストレスが落ち着いたあたりで飲む方が美味しいのかもしれない。

それもあって年数が経ったボジョレーを買ってみた。

当日は友人らと飲む予定なのでお互いの感想を愉しみたい。

 

合いそうな料理がこれにまとめられていて参考になる。


【レシピ】ボジョレーヌーボーと相性の良い食べ物のまとめ2013【チーズ】 - NAVER まとめ

余は如何にして猛虎魂を得りし乎

プロ野球の話題になって、阪神ファンと言うとほぼ毎回

どうして楽天ファンじゃないの?

と言われます。まあ、私が東北出身ということからそう思うのでしょう。

いやしかしだ…

こちとら10年以上阪神ファンやっとるんじゃい!

楽天なんてなかったしオリックス・ブルーウェーブ近鉄バファローズだったし、ホークスはダイエーだったし日ハムは東京にあったんです。

 

なぜ阪神タイガーズのファンになったか…?

球団ロゴの虎がカッコよかったから!!

懐かしきニンテンドー64の「【N64】超空間ナイタープロ野球キング : 野球ゲーム博物館」の球団選択画面で見て一目ぼれですよ!おおん、懐かしすぎる…



http://www.mmk.jp/site_data/cabinet/goods_img/game/000004-12019.jpg

なんといっても当時の私はチーターが大好きでしたから、そら似たような虎には目がないっす。

しかもあのときの虎は今と違ってリアルな虎の咆哮姿でカッコいいのなんのって。

イチローや松井がいましたけれど新庄が大好きでした。

理由は覚えていません。新庄剛志が読めず「しんじょうごうし」だと思っていました。山形の新庄の出身だと思っていました。

新庄は今でも一番好きな野球選手です。メジャーに行っても日ハムに行っても好きでした。

次に好きなのは平野恵一です。あのダイナミックな守備になんど驚嘆したか。

その次はジェフ。パワプロでスライダー変化量が6とか7で、すげえ。

 

私が阪神をどれだけ好きかと言いますと、

六甲おろしはサビしか知らない。

選手別応援歌をひとつも知らない。

甲子園球場が兵庫にあると長らく気づかなかった。

2003年、2005年にリーグ優勝したけれど何の恩恵にも与らなかった。

野球部に入ったことは一度もない。

高校時代は昼休みの時間ずっと一人で野球ニュースをケータイで読んでいた。

金本が試合欠場を直訴したときのスポーツ新聞を二社分買った。

一昨年になって初めてファングッズを買った。

金本のスポーツタオルを買った。

去年になって初めて甲子園球場に足を運んだ。

ちょうど春のセンバツ高校野球の時期だったがひたすら博物館にこもっていた。

そのときブラゼルと城島のクリアファイルを買った。

桧山のレプリカサインボールも買った。

去年になって初めて阪神戦を観戦した。

試合は5対0で巨人に勝った。

巨人ファンの友人と東京ドームで観戦した。

屋台ラーメンをすすって21時ころに帰った。

最近聞き覚えのない選手が増えてきて困惑している。

同い年の阪神選手が出てきて驚いている。

阪神を見ていると日本の縮図のようでつらい。

毎年優勝すると言っている。

阪神優勝(するとは言っていない)

【加筆修正】すべては自分次第か?日瑞の青年意識比較から見えること

すべては自分次第か?-Does everything of life depend on me?-

はじめに

 本稿では人生の自由についてスウェーデンと日本を取り上げながら検討する。具体的には、世界価値観調査の「自分の人生をどれほど自由に動かせるか(How much freedom of choice and control over own life)」に対する回答および、日本内閣府の「平成25年度 我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」をふまえて、スウェーデンと日本の生年意識を比較し、人生を自由に生きられることについて考察する。人は誰しも自分以外の人生を生きることはできない。人生を自由に生きられるとは換言すれば、人生における選択と決断を自らに由って行えるということである。そこでは他人や社会の口出しを認める余地はない。もし人生で自由が感じられないならば、それは自らの選択と決断が他者に侵害されていると言えるのではないだろうか。人生が、それを生きる者の選択や決断とは無関係に定まるとしたら、それはいったい誰の人生なのだろうか*1

 

 長年に亘って困窮した状況に置かれていると、その犠牲者はいつも嘆き続けることはしなくなり、小さな慈悲に大きな喜びを見いだす努力をし、自分の願望を控えめな(現実的な)レベルにまで切り下げようとする。

――アマルティア・セン*2

 

自分の人生をどれほど自由に動かせるか

 はじめに、舞田敏彦が世界価値観調査(World Value Survey)の2010-2014版をもとに作成した下図[1]を見てもらいたい。「自分の人生をどれほど自由に動かせるか(How much freedom of choice and control over own life)」に対する20代の回答である。

 

 

 これを見て分かるように日本は最下位に位置している。すなわち、他国と比べて日本の若者は人生が自由ではないと感じていることが分かる。日本と比べると、スウェーデンはそれよりもずっと上に位置し、また男性よりも女性の方が人生を自由に感じている。これに対し日本人はポジティヴな回答を避ける国民性があるという反論がなされるかもしれない。以下で日本の内閣府が行った「平成25年度 我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」の回答についても見ていくが、もし国民性があるとしてもそれこそまさにその国の風潮を表すものであると考えられ、ポジティヴな回答をしたがらない日本の国民性でもって回答結果の妥当性が著しく揺らぐわけではないだろう。

 内閣府の調査は日本,韓国,アメリカ,英国,ドイツ,フランス,スウェーデンを対象国とし各国満13歳から満29歳までの男女に行われている。この調査結果のうち主に不安と選択に関わるものを取り上げていく。

・悩みや心配事の有無

 

現在の悩みや心配事の有無を日本の若者に聞いたところ,「自分の将来のこと」(79.4%)「お金のこと」(75.9%),「仕事のこと」(74.8%)等の項目で,『心配』(「心配」+「どちらかといえば心配」)と答えた割合が高い[2]。(p.20)

 

 同項目についてスウェーデンでは「自分の将来のこと」(52.7%)、「お金のこと」(51.7%)、「仕事のこと」(44.1%)となっており、スウェーデンよりも日本の若者がこれらについてずっと不安に思っていることが分かる。また「進学のこと」に関しては『心配』と回答した者が日本ではスウェーデンより30%以上も多い。同様に進路に関わる「就職のこと」では20%の開きがあり、日本では若者が就職以上に進学に関してスウェーデンよりも大きな不安を抱えていることが分かる[3]

 

・将来への希望

 

日本の若者に将来への希望を聞いたところ,『希望がある』と答えたのは 61.6%(「希望がある」12.2%+「どちらかといえば希望がある」49.4%)である。

7か国比較で見ると,アメリカ(91.1%)とスウェーデン(90.8%)は『希望がある』と回答する割合が9割以上,英国(89.8%),韓国(86.4%),フランス(83.3%),ドイツ(82.4%)も『希望がある』が8割以上を占めており,日本が最も低い割合となっている。(p.28)

 

 日本では『希望がある』と答えたのは約3人に2人だったが、スウェーデンでは10人中9人が『希望がある』と答えている。ただし、日本の若者の意識には自分への満足感が関連していると内閣府は分析している[4]。なお「私は、自分自身に満足している」という質問に『満足している』(「そう思う」+「どちらかといえばそう思う」))と回答した者の割合は日本45.6%(7.5%+38.3%)、スウェーデン74.5%(21.3%+53.2%)である。

 

・社会規範

 

日本の若者に社会規範について聞いたところ,「いかなる理由があっても,いじめをしてはいけない」に『そう思う』と回答した割合は,85.6%(「そう思う」50.1%+「どちらかといえばそう思う」35.5%),以下,「いかなる理由があっても,約束は守るべきだ」(76.2%),「困っている人を見たら頼まれなくても助けてあげるべきだ」(74.0%)となっている。「他人に迷惑をかけなければ,何をしようと個人の自由だ」に『そう思わない』と回答した割合は,53.2%(「どちらかといえばそう思わない」28.8%+「そう思わない」24.4%)となっている。(p.43)

 

 「他人に迷惑をかけなければ,何をしようと個人の自由だ」に『そう思わない』と回答した割合は日本が最低で、スウェーデンの77.2%のように他の諸国は総じて7割を超えている。スウェーデンでは「困っている人を見たら頼まれなくても助けてあげるべきだ」に『そう思う』と答えている割合は最も低い韓国の66.9%に次いで低い(70.0%)[5]

 

・男女の役割観

 

a)男は外で働き,女は家庭を守るべきだ

日本の若者は,「賛成する」が 22.3%,「反対する」が 38.7%である。

7か国比較で見ると,「賛成する」の割合は,アメリカ(26.9%),英国(25.5%)で高く,スウェーデン(6.6%),フランス(10.2%)で低い。(p.48)

 

b)子どもが小さいときは,子どもの世話をするのは母親でなければならない

日本の若者は,「賛成する」が 25.4%,「反対する」が 40.2%である。

7か国比較で見ると,「賛成する」の割合は,ドイツ(60.2%),アメリカ(60.0%),英国(57.4%)で高く,フランス(23.0%),スウェーデン(29.8%)で低い。(同)

 

 性別役割分業に関して日本の若者は反対である者が多いというよりも、賛成でない者が多いと見る方が正確だろう[6]。(a)と(b)のどちらについても「分からない」という回答が30%を超えている。スウェーデンでは性別役割分業に対して反対する者が過半数である。

 

・仕事と家庭の関係

 

仕事と家庭との関係について,日本の若者に聞いたところ,「家庭を持つと働きにくい職業がある」(78.6%),「家庭や子育てと仕事を両立できる企業が少ない」(68.2%),「家庭生活を考えると転職や仕事を辞めるのは難しい」(67.7%)等の項目で,『そう思う』(「そう思う」+「どちらかといえばそう思う」)の割合が高い。(p.50)

 

 同項目についてスウェーデンでは「家庭を持つと働きにくい職業がある」(85.8%)、「家庭や子育てと仕事を両立できる企業が少ない」(45.0%)、「家庭生活を考えると転職や仕事を辞めるのは難しい」(64.6%)となっている。仕事と家庭の両立を気に揉む点は両国とも変わりないが、その実現に際しては事情が異なるようである。スウェーデンでは日本よりも「家庭や子育てと仕事を両立できる企業が少ない」とする回答が少なく、また「子どもを産み育てるために会社を一定期間休んだ後,職場に復帰することが難しい」に『そう思う』と答えたのはスウェーデンで39.0%、日本で64.9%であることから[7]、企業側が家庭と仕事の両立に日本よりも対応しているものと考えられる。

 

・性別と進路選択の関係

 

日本の若者に,進路や職業を考える際に性別を意識するかどうか聞いたところ,『意識する』と回答したのは 42.3%(「意識する」6.4%+「どちらかといえば意識する」35.9%)である。

7か国比較で見ると,ドイツ(67.3%)とアメリカ(66.3%)では7割近くが『意識する』と回答している。一方スウェーデンでは,『意識する』は 30.2%にとどまっている。(p.53)

 

 これに対して「意識しない」と回答した者はスウェーデンでは日本のほぼ2倍にあたる46.7%であり、性別役割分業に反対する上述の結果もあるようにスウェーデンにおいて性別は主たる判断材料としては考慮されない傾向にあると言えよう。

 

・結婚観

 

日本の若者に結婚観[8]について聞いたところ,『結婚したほうがよい』と考えているのは62.5%(「結婚すべきだ」16.7%+「結婚したほうがよい」45.8%)である。

7か国比較で見ると,『結婚したほうがよい』との回答割合が最も高いのは韓国(67.1%)で,以下アメリカ(52.3%),英国(51.5%),ドイツ(46.4%),フランス(38.9%),スウェーデン(24.3%)の順となっている。(p.54)

 

 スウェーデンでは「結婚しないほうがよい」という回答が64.9%を占めており、この回答が過半数であるのは他にはフランス(52.0%)だけである。結婚していない同棲者を保護する仕組み(スウェーデン「サムボ法」、フランス「民事連帯契約(PACS)」)がこの背景にあると考えられる。

 

・離婚観

 

離婚観について日本の若者に聞いたところ,「子どもがいれば離婚すべきではないが,いなければ,事情によってはやむをえない」(32.3%),「子どもの有無にかかわらず,事情によっては離婚もやむをえない」(30.7%)がそれぞれ3割程となっている。「互いに愛情がなくなれば,離婚すべきである」は 6.9%である。

7か国比較で見ると,「いったん結婚したら,いかなる理由があっても離婚すべきではない」の割合は,アメリカ(20.5%),韓国(17.3%),英国(16.0%)で高い。

「互いに愛情がなくなれば,離婚すべきである」は,スウェーデン(30.3%)で最も高く,フランス(25.1%),ドイツ(23.4%)でも,それぞれ約4分の1を占めている。(p.58)

 

 「結婚したら、いかなる理由でも離婚すべきでない」という回答は日本で13.7%、スウェーデンでは4.9%(7か国中最低)である。スウェーデンの回答からはあくまでも当事者間の心情が離婚を決めるという傾向がうかがわれる。

 

・政策決定過程への関与

 

日本の若者に政策決定過程への関与について聞いたところ,『そう思う』(「そう思う」+「どちらかといえばそう思う」)の割合が最も高いのは「子どもや若者が対象の政策や制度は対象者に聞くべき」(67.7%)である。次いで,「私個人の力では政府の決定に影響を与えられない」(61.2%),「社会をよりよくするため,社会問題に関与したい」(44.3%)となっている[9]。(p.66)

 

同項目についてスウェーデンでは「子どもや若者が対象の政策や制度は対象者に聞くべき」には78.0%が、「社会をよりよくするため,社会問題に関与したい」には52.9%が『そう思う』と回答しており、日本とそう差はない。しかし「私個人の力では政府の決定に影響を与えられない」に『そう思う』と答えているのは39.2%(7か国中最低)であり、日本のみならず他国とも決定的な違いを見せている。

 

・社会観

 

自国の将来は『明るい』と考える日本の若者は,28.8%(「明るい」2.6%+「どちらかといえば明るい」26.1%)にとどまっており,『暗い』が過半数(「暗い」16.0%+「どちらかといえば暗い」38.2%)を占めている[10]

7か国比較で見ると,『明るい』との回答割合が最も高いのはスウェーデン(67.8%)で,以下,ドイツ(66.3%),英国(59.6%),アメリカ(57.0%),韓国(43.1%),フランス(36.0%)の順である。(p.70)

 

 スウェーデンでは「明るい」と考えている割合が20.4%と日本の約8倍もある。「暗い」と考えている割合はドイツ(5.9%)に次いで低い水準にある(6.1%)。

 

・自国社会の問題

 

日本の若者に,自国社会の問題を聞いたところ,「就職が難しく,失業も多い」(47.7%),「まじめな者がむくわれない」(41.4%),「よい政治が行われていない」(39.1%)等の項目が上位にあげられている[11]。(p.71)

 

同項目についてスウェーデンでは「就職が難しく,失業も多い」50.4%、「まじめな者がむくわれない」30.3%、「よい政治が行われていない」29.0%である。ちなみにスウェーデンでは「人種によって差別がある」が他国に比べると高い割合(45.2%)となっている(次点はアメリカの40.9%)[12]

 

・社会で成功する要因

 

社会で成功するために重要なものを日本の若者に聞いたところ,「個人の努力」(34.0%)をあげる人が最も多く,次いで「個人の才能」(25.3%),「運やチャンス」(17.2%)となっている。(p.74)

 

 同項目についてスウェーデンでは「個人の努力」「個人の才能」という回答はほぼ同率(36.0%、23.8%)だが、「運やチャンス」という回答は5.3%にすぎない。日本の特徴は「身分・家柄・親の地位」の回答が7.4%と他国よりずっと低いことである。

 

・転職に対する考え方

 

日本の若者に転職に対する考え方を聞いたところ,「できるだけ転職せずに同じ職場で働きたい」と回答した人の割合が 31.5%で最も高く,「職場に強い不満があれば,転職することもやむをえない」が 28.6%,「職場に不満があれば,転職する方がよい」が 14.2%となっている。「つらくても転職せず,一生一つの職場で働き続けるべきである」という人は 4.8である。(p.89)

 

スウェーデンでは「職場に不満があれば,転職する方がよい」が47.4%で最も高く、「できるだけ転職せずに同じ職場で働きたい」は14.7%、「つらくても転職せず,一生一つの職場で働き続けるべきである」に至っては1.7%に過ぎない。日本では転職に消極的だが、スウェーデンは他国と比べても一つの職場に留まる意識は低く転職に対して積極的である[13]

 

・現在または将来の不安

 

現在または将来の不安について日本の若者に聞いたところ,「十分な収入が得られるか」(78.0%),「老後の年金はどうなるか」(77.6%),「働く先での人間関係がうまくいくか」(74.8%),「そもそも就職できるのか・仕事を続けられるのか[14]」(74.6%),「社会の景気動向はどうか」(73.5%),「きちんと仕事ができるか」(73.0%)の6項目は,『不安』(「不安」+「どちらかといえば不安」)が7割以上を占めている[15]。(p.91)

 

 スウェーデンでは「そもそも就職できるのか・仕事を続けられるのか」が『不安』のうち44.9%で最も高く、「十分な収入が得られるか」の44.5%が次点となっているように、『不安』が過半数を占める項目はない。将来の収入に関わる「老後の年金はどうなるか」「社会の景気動向はどうか」についての『不安』はそれぞれ日本の半分に満たない36.6%、32.5%である。スウェーデンは全般的に他国よりも『不安』の回答が少ない。

 

・大学など(高等教育機関)への進学について

 

日本の若者に進学についての考えについて聞いたところ,「進学したいと考えているが,自らの能力面で不安がある」が 45.4%と最も高い。次いで「進学したいと考えており,特に不安はない」(28.7%),「進学したいと考えているが,費用の面で不安がある」(13.2%)の順となっている。「進学する必要性を感じない」のは12.7%である。(p.101)

 

 日本と同様にいわゆる受験戦争がある韓国も「進学したいと考えているが,自らの能力面で不安がある」と感じている割合が高い(48.5%)。スウェーデンでは「進学する必要を感じない」という回答が21.5%あり、際立った特徴を見せている。また「進学したいと考えているが,費用の面で不安がある」については8.8%で、学費がほぼ無償[16]のドイツ(6.7%)に次いで低く、フランス(8.9%)とほぼ同じである。

 

・教育費の負担

 

日本の若者に教育にかかる費用負担について聞いたところ,「基本的には,本人またはその親が費用を負担すべき」が 42.6%で最も高いものの,「基本的には,社会全体で費用を負担すべき」(40.3%)も4割台であった。(p.103)

 

 日本では個人負担と社会負担の立場が拮抗している。スウェーデンでは「基本的には,社会全体で費用を負担すべき」が圧倒的に高く、74.9%を占める。「基本的には,社会全体で費用を負担すべき」という割合(12.1%)は他国と比べても半分以下である。

 

・調査を踏まえて

 

 スウェーデンの回答に見られる特徴は、個人主義が徹底されている[17]、社会に対して前向きである、結婚や離婚はすべき/すべきでないという問題でなく当事者に委ねられた選択である、家庭と仕事の両立が進んでいる、転職に積極的である、そして教育費は社会が負担すべきであるとする点である。

 翻って日本の回答に見られる特徴は、他国と比べてずっと不安を感じている、自分への満足感が低い、社会の将来に悲観的である、家庭と仕事の両立が進んでいない、金銭的な不安が大きい、社会での成功に運やチャンスの要因を見る、一つの職場に留まる傾向が強いといった点である。

 調査結果を踏まえた加藤弘通(北海道大学大学院教育学研究院准教授)は自尊感情とその関連要因の比較を行っており[18]、以下にその一部を抜粋する。

 

日本の青年の場合は,「自分への満足感」が自己有用感との関連のなかで考えられているのに対し,他国の青年においては,「自分への満足感」が自己有用感とはあまり関係なく考えられている可能性があるということである。(p.125)

 

つまり,日本の青年の「自分への満足感」には,各国の青年と共通して,長所の存在や自分の考えをうまく伝えられること,難易度の高い課題にチャレンジしてみることなどが強く関連している一方で,「今が楽しければ良い」といった刹那的な要因の関連性はそれほどでもなく,また弱いながらも他者への不信感が関連しているということである。(p.132)

 

スウェーデンの青年の「自分への満足感」に関連する要因の特徴をあげるなら,自己認識については,長所,挑戦心,主張性といった対自的な要因が強く関連していることである。また自己有用感との関連性は,日本の青年ほど強くないものの,関連性がみられた。人間関係・社会的居場所について,家庭,友人関係,学校への満足感が比較的強く関連している。(p.131)

 

 ここで言われている自己有用感とは「自分が役に立つと感じている」ことである。加藤は分析を通じて、日本の青年は自尊感情が他国と比較して低いというよりも、それが他国の青年と比べて異なったあり方であることを指摘している。日本では自尊感情(自分への満足感)が自己有用感と関連して、いわば対他的に定まっているのに対し、他の諸国では対自的に定まっている可能性があると考えられている。対他的であることと、若干ではあるが他者への不信感が自尊感情に負の影響を及ぼしていることは無関係でないだろう。スウェーデンでも自尊感情と自己所有間に関連性が見られるものの、家族や友人関係それに学校への満足感が比較的強く関連していることは日本の青年とは違った様相を呈している。言うなれば、日本の青年は対自的に自らに満足するよりも信頼できる他者の役に自分が立っていることで以て自尊感情がわくのに対し、スウェーデンの青年は対自的に自らに満足しており、そのうえで人間関係や社会的居場所での高い満足感がさらに自尊感情を引き立てているものと考えられる。

 日本の青年がこのように他者との関わりで自尊感情を抱くならば、就職難や失業によって他者との関わりが断たれ、自分が役に立っていないと強く感じるとき自尊感情は著しく損なわれることになる。このことを踏まえると上記の回答に表れている、日本の青年が自分の人生を自由に動かせるとあまり捉えていないことと、社会的経済的不安を抱えていることは無関係でないように思われる。すなわち、社会にあって自己有用感を抱けない状況とは端的に言えば経済的に難しい立場―就職難や失業―にあるときであり、そのようななかで他者との関わりをもてない若者が自分の人生を否定的に、つまり自由に動かすことはできないと感じていても不思議ではない。

 日本の青年は他者との関わりのなかで自尊感情と自己有用感を養い、人生に対して前向きになる傾向にあると言える。彼らが人生に不自由を感じるのは社会的経済的不安によって自尊感情と自己有用感が損なわれているからであると考えられ、その回復には社会的経済的サポートが必要不可欠だろう。なお日本とスウェーデンの青年意識に差をもたらしていると思われる両国の生活保障については稿を改めて検討する。

 

[1]舞田敏彦「自分の人生をどれほど自由に動かせるか」『データえっせい』2014年5月8日木曜日http://tmaita77.blogspot.jp/2014/05/blog-post_8.html

[2]※「仕事のこと」は就労者が対象

[3]スウェーデンは日本のような高校卒業後の大学進学が当たり前ではない。いったん職に就いてから大学に入る者の割合が多い。竹﨑(2002)によると「高校新卒者のあいだでの大学進学率は、調査によれば、卒後1年以内が17%のみであった。……卒後3年以内となると、進学率は37%へとつり上がる」とのことである*3

[4]日本の若者が感じている将来への希望は,『自分への満足感』や『自国の将来性』と関連していることが考えられる。『自分に満足している』(「そう思う」+「どちらかといえばそう思う」),または『自国の将来は明るい』(「明るい」+「どちらかといえば明るい」)とする若者は,『将来の希望がある』(「希望がある」+「どちらかといえば希望がある」)と感じている割合が高い傾向にある。(p.28)

[5]これは「スウェーデン人は老若男女とも、「自分でできることは安易に他者に頼ることなく、自分ひとりでやる」という自立の精神を発揮している」という気質の反映と思われる*4

[6]内閣府男女共同参画府が平成21年に行った「男女のライフスタイルに関する意識調査」によれば「固定的性別役割分担意識について、賛成と反対が拮抗して」(p.11)おり、日本ではいまだ払拭されていないと言えよう。http://www.gender.go.jp/research/kenkyu/lifestyle/index.html

[7]ただしスウェーデンでは「分からない」が日本の約2倍の32.3%である。

[8]なお結婚には事実婚も含まれている。

[9]この回答結果で興味深いことは「政策や制度については専門家の間で議論して決定するのが良い」に対し日本の『そう思う』という回答が他国よりもぐんと低い(36.8%)ことである。

[10]自国の将来を『明るい』と考えている割合は日本が最低だが、『重い』と考えている割合はフランスが最も高い。

[11]『自国社会の問題』について,日本の若者の社会への満足度別にみたところ,『不満(「不満」+「どちらかといえば不満」)』と考える若者は,「就職が難しく,失業も多い」(56.7%)や「よい政治が行われていない」(52.2%)をあげる割合が高い。次いで,「まじめな者がむくわれない」(48.8%),「正しいことが通らない」(41.4%),「若者の意見が反映されていない」(40.5%),「学歴によって収入や仕事に格差がある」(40.2%)があがり,これらをより強く感じていることがわかる。また,『満足』(「満足」+「どちらかといえば満足」)と考える若者との差が大きい項目をあげると,「よい政治が行われていない」,「若者の意見が反映されていない」,「正しいことが通らない」,「就職が難しく,失業も多い」,「貧富の差がありすぎる」等となっている。(p.73)

[12]日本ではこの項目への回答は6.5%しかなく、7か国中最も低い。

[13]「職場に不満があれば,転職する方がよい」と「自分の才能を生かすため,積極的に転職する方がよい」が合わせた回答はスウェーデンが54.6%で、次点のドイツ(40.5%)や他の諸国(20~30%)を大きく上回っている。

[14]『そもそも就職できるのか,仕事を続けられるのか』という仕事に対する不安を抱える若者(「不安」+「どちらかといえば不安」)は,結婚・育児のイメージをもつ割合が低い傾向となっており,就労状態や就労に関わる不安が結婚・育児の将来イメージへ関連していることがわかる。(p.40)

[15]日本はほとんど項目で他国より『不安』を感じており、そうでないのは「きちんと仕事ができるか」(日本はフランス78.0%の次点)、「健康・体力面はどうか」(日本はフランス68.2%の次点)だけである。

[16]ドイツは2006年から授業料を徴収していたが、再び無償化することが決まった。「This Country Just Abolished College Tuition Fees」(THINK PROGRESS Oct 1,2014)のなかで、最後に無償化を決めたLower Saxonyの科学文化長官は“We got rid of tuition fees because we do not want higher education which depends on the wealth of the parents”(高等教育を受けられるかが親の収入に依存しないために我々は授業料を撤廃する。)と表明した。

[17]スウェーデンにおいては自立が求められるとともに、人々が自立できる仕組みが整えられている。「できることは自分で、できないことは他人と」がスウェーデンの特徴と言える*5

[18]北海道大学大学院教育学研究院准教授加藤弘通「自尊感情とその関連要因の比較:日本の青年は自尊感情が低いのか?」日本内閣府「平成25年度我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」第3部 有識者の分析http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/thinking/h25/pdf_index.html

 

*1:過去に書いた似たような記事として 

私のでない人生を生きる理由はあるのか?個人とは“この私”である。 - ここに広告塔を建てよう

誰が為に福祉は在る―「する側」の論理を超えて― - ここに広告塔を建てよう

*2:Sen, Amartya Kumar,池本, 幸生,野上, 裕生,佐藤, 仁:不平等の再検討 : 潜在能力と自由 岩波書店 1999

*3:竹崎, 孜:スウェーデンはなぜ少子国家にならなかったのか あけび書房 2002

*4:高岡, 望:日本はスウェーデンになるべきか PHP研究所 2011 p.46

*5: 岡沢, 憲芙,中間, 真一:スウェーデン : 自律社会を生きる人びと 早稲田大学出版部 2006