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誰が為に福祉は在る―「する側」の論理を超えて―

要約:福祉の必要性を「個人主義」とそれに立脚した「自己論」の観点から論じた。福祉を巡る理由づけは得てして「する側」からのものであるとし、「する/される」視点以前にある「個人」そのもの及びその在り方に着目した。ただし「個人」や「自己」の狭い意味に執着するのではなく、時間軸と空間軸を導入してより広い意味で捉えた。「個人」あるいは「自己」として生きる人間の原理や可能性とあわせて考えることで福祉を取り巻く議論に幾らかでも資することを期した。

キーワード:福祉、福祉哲学、個人主義、自己論、福祉国家

自己論から捉える福祉哲学―あまねく人が自らの人生を全うできる社会を目指して―

 

 現代の日本において格差や貧困の問題が取り上げられるようになって久しい。かつて一億総中流と言われるほどであった日本も今や富める者と貧しき者の二極化が進みつつあると言えよう。そこで熱を帯びてくるのは格差や貧困をどう解決するのか、あるいは減らしてくのかという議論であり、福祉をいかなる形で実施していくかという問いである。

しかし、私の目には何か物足りなく映る。それは“なぜ”福祉が必要かという根本的なところをおざなりにしているように見えるからである。困っている人がいるから…かわいそうだから…人には生存権があるから…このように言うことで事足れりとすることに私は満足しない。これらはみな「する側」からの論理でしかない。そこには自らも「される側」になることがあるのだという認識が希薄か、あるいはまったくない。

私はこの“なぜ”福祉が必要かという問いに「自己論」を以て答える。ほぼ例外なく人がもつであろう「自分」という固有の意識と身体から福祉の必要性を説くことがこの論文における本旨である。そこには「する側」「される側」という分化した視点はない。

結論を先取りすると、人は一人の人として生まれてくるのだから、その人は「自分」として生きて、そして死んでいけるようにすべきなのである。他の誰でもない、後にも先にも二度と現れない一度きりの人生を全うすること、これが大原則としてあるべきなのだ。つまり、人が一人の人として生まれてくる以上その人として生きて死んでいけることの保証と、生きている間には全てその人次第で決められるようにする保障が必要であり、それらが福祉ということなる。そして、この福祉を支える根本的な理屈が自己論から導出されるということである。

私の考えを述べる前に二つの主義主張を整理しておきたい。すでに触れたように私は「自分」あるいは「個人」がそれぞれ有する“かけがえのなさ”に着目し、これを最重要視している。きわめて個人主義的とも言えよう。この個人主義に立脚しながら現代の特に欧米において真っ向から対立する二つの主義がある。それがリベラリズムリバタリアニズムである。どちらも原義としては「自由」を意味する言葉からきているが、前者はもっぱら福祉国家社会民主主義的な文脈で用いられるのに対し後者は本来の自由主義的な文脈で用いられる。個人の自由を尊重する点では両者とも変わらないがその内実において深刻な対立がある。私はどちらかといえばリベラリズムに親和的でありリバタリアニズムには違和感を抱く。とはいえ後者が主張するような現行の家族制度や国家観のある種の解体には私も同意するところがある。個人は人との関わりのなかで自身が「何者であるか」規定されるが、同時に意に反するものであれば撥ねつけ、自らの意志でそれを規定できるべきだと私も考える。しかしリバタリアニズムは個人の自己所有権を絶対視し、福祉国家的な介入や制度のほとんどを許容しない。この点が私の考えとは決然と相反する。では私の考える「個人」像あるいは「福祉」観はどのようなものであるか。それを以下で述べよう。

 私は、それぞれ個人として生きる人類の根本的な原理は大きく分けて二種類あると考えている。一つは「“自らが生きた証”を後代・後世に遺すこと」(時間軸)であり、もう一つは「“拡張的自己”によって生存の可能性を高めると同時に生を充溢させること」(空間軸)である。個人はこの目的を満たすあるいは果たすために日々生活しているというのが私の考えである。個人が自身の利益をもっとも最大化するために動くと言うときの利益もこうした目的に適う意味での利益である。

前者には二重の意味があり、後代と後世がそれに対応している。“自らが生きた証”を後代に遺すとは端的に言って生殖し子孫を遺すこと(geneの継承)である。これは人類にとどまらず生物全般の一般的な本能とされている。そして“自らが生きた証”を後世に遺すとは抽象的に言えば痕跡を遺すこと(memeの伝播)である。たとえば大きくは学問的成果であるとか芸術的功績をもたらすといったことであり、小さくは生前付き合った人々に死後も記憶しておいてもらうことである。

これらのどちらも後の世代から振り返って見られたときに“自分がいた”ことを認めてもらうためのものである。子どもがいれば親がおり、作品があれば作者がいるという、そのようなことを以て“自らが生きた証”を歴史に留め置くのである。しかもこのことにより生ある自分にとって不可避的な有限性を“克服”できたとも言える。死は虚無でなくなり、ただ“自分がいる”ことから“自分がいた”ことへの移行を意味するのである。もちろん初めからいなかったことになりはしない。

後者には“拡張的自己”という聞きなれない言葉がある。これは通常の意味で自己と言うときの狭い範囲に留まらず、自己に立脚しながら様々な関わりのなかで広がりをもったものである。たとえば親しい友人の身に降りかかったことを自分事のように捉えたり、共通の目的を達成しようとする過程で他者との一体感を得たりしたときの自己の状態である。つまり、他者があたかも自分であるかのように感じられるとき、あるいは他者をそのようにみなしているときの自己である。

人間は個体としてみる限りでは脆弱であり、人が素手で闘えるのは中型犬までとも聞く。しかし他者と連帯し協働することで彼らの力や知恵を取り込み、拡張的自己を形成することによって個体単位では考えられないほどの強さをもつに至ったと考えられよう。近年研究が進められているソーシャル・ブレインは私がここで“拡張的自己”と呼んでいるものを自然科学の見地から検証・追究しようとしているように思われる。またこの自己状態は単に生きる量(死ぬまでの時間)に資するのみならず、生きる質にも多分に影響している。人類の根本の原理のうち前者で“自分がいた”ことを後から認めてもらいたいと書いたが、ここでは“自分がいる”ことをいま認めてもらいたいという欲求が関わってくる。それはとりもなおさず個人が「自分」という固有の意識をもつが故のものである。

人は自分がいないものとして扱われることに耐えられない。それは死に近似しているからというよりも、初めから生まれてなどいなかったかのように扱われるからである。そこでは死すら許されていないのである。生まれていなければ死ぬことはできない。この絶望的な感覚に陥らずに済むのが“拡張的自己”のもう一つの側面である。狭義の自己とは異なり“拡張的自己”は他者をあらかじめ内包している。そこでは自己自身によって他者が、また他者自身によって自己が承認されているため“いま・自分がいる”こと、生きていることをはっきりと感じられる。これが後者における「生を充溢させる」という意味である。

私は以上に述べた人類の根本原理に基づいて個人がそれぞれあると考えている。個人主義に入れ込むあまり個人を他者と切り離された存在としてみる見方を私は取らない。個人が個人として生きるには他者の存在が大前提としてある。かつては神と一対一で対面するに際しての偽らざる一体としての意識から個人という考えが生じたかもしれない[1]が、現代においては仰ぎ見る神に対してではなく同じ目線で相対する他者へのあり方として個人があるのである。

このような「個人」像を抱く私が考える「福祉」観は、あまねく人が自らの人生を全うできるよう個人として固有にもつ可能性の最適化とその毀損の防止のためにあるべきだというものである。福祉は「する側」から「される側」にもたらされる施しでもなければ、「される側」が「する側」に求める慈悲でもない。その個人にとって何が最も望ましいかはその個人のみが知るところであって、他者が完全に関知できるものではない。福祉は恣意的なモデルケースで以てこのようになるのが望ましいと押し付けるのではなく、個人が自身の望むことを達成できるように“地ならし”する役目を負うべきなのである。けっして道を作ってその通りに沿わせることはすべきでない。

このような考え方をとれば自由と福祉はリバタリアニズムが言うように相反するものではない。言うなれば困窮した状態や病弱した状態はその個人の可能性を損なっているばかりか、あまつさえ奪ってもいる状態なのである。リバタリアンは所得の再分配によってなされる福祉に反対するが、所得が個人の営みによってもたらされるため、それは個人の可能性が最適化されるに至って最ももたらされると考えられる。となると所得の再分配とは、すでに可能性が最適化された個人から未だ可能性の発現を妨げられている者への機会の提供とは考えられないだろうか。

リバタリアンは個人の自己所有権を頑健に主張するが、自身だけでなく当然他者のそれも認めねばならないだろう。たしかに所得の再分配は自己の所有物のいくらかを徴収されることだが、それはある個人の可能性に対する自己所有権を回復させることに資すると捉えるべきである。そうでなければ、自分の自己所有権が不自由にされるのは嫌だがお前の自己所有権が不自由にさらされていても知ったことではないとなり、フェアといえない。

国家による徴収というその強制性に対する反発は残るだろうが、この場合国家に委ねる法がなおフェアである。私人の自発性や寄付によって福祉がなされるのを期待することは不確実性と偏りが強いように思われる。「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。」と言ったのはトルストイだったが、私はこれを不幸の“見えにくさ”を表すものとして解釈している。「それぞれの仕方で不幸」とはつまり一方では不幸であるのが他方からは不幸に“見えない”ということではないだろうか。トルストイの言を引いて何を言いたいかというとこのように不幸は“見えにくい”ものであるから私人による救済や支援はよほど目に余るものに対してでない限り起きにくく、またその救済や支援の手から零れ落ちる人々も多いということである。顕在化した不幸の払拭ではなく、そもそも不幸を未然に防ぐために国家による事前的で無差別な介入が必要なのである。

私が福祉を必要だと主張するのは以上のような論理からである。元来、福祉とは人々の思い切りを妨げている足枷を外して各人の望むところを達成できるように供するべきだと考えてきた。それは人々がそれぞれ「個人」としての意識と身体をもち、他の誰のものでもない人生を生きているからであった。「自己」のあり方に着目し、人は「自己利益」をもっとも追求するという私の考えはともすると福祉と相容れないものであるかのように思われるかもしれない(これは経済と福祉が一般には相性が悪いと考えられていることに似ている)。しかしそのようなことはけっしてなく、むしろ本論文で述べたように結託するものである。

今回のように哲学の理論に基づいて福祉の実践を考えることが私の課題である。拙劣なところばかりで飛躍も甚だしいと思われるが、今後緻密なものに仕上げていきたい。

(4714文字)

 

◎参考文献

阿部彩『弱者の居場所がない社会』講談社現代新書2011

鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したか』ちくま新書、2013

嶋津格『問いとしての〈正しさ〉 法哲学の挑戦』NTT出版、2011

友野典男『行動経済学入門』光文社新書2006

平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』講談社現代新書2012

広井良典『生命と時間』勁草書房1994

広井良典『死生観を問いなおす』ちくま新書、2001

真木悠介『自我の起源』岩波現代文庫2008

森岡正博『生命観を問いなおす』ちくま新書、1994

森村進『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』講談社現代新書2001;2006

M.J.サンデル(菊池訳)『リベラリズムと正義の限界 原著第二版』勁草書房2009;2010

ロバート・パットナム『孤独なボウリング』柏書房、2006

G.H.ミード『社会的自我』恒星社厚生閣、1991



[1]それ以上分かつことのできない「個人」に対し、分かつことのできる「分人」を提唱する平野啓一郎は「個人」が生まれた背景をこのように捉えている。平野は、「個人」という考え方では様々に表れる自分の相を説明できず、「本当の自分はどれか」という考えに憑りつかれてしまいがちだが、そのような自分はどれも「分人」という形態をとった自分そのものであるとする。『私とは何か――「個人」から「分人」へ』 (講談社現代新書2012)