私のでない人生を生きる理由はあるのか?個人とは“この私”である。

この人生を、私の選択や決断によって生きられないとして、それをなお“この私”が生きねばならない理由はあるのか?

あるとしたら、それはいったい誰にとってか?生かされるのが“この私”でなければならない理由は誰にある?

どこにある?と問うてもよい。人でなくとも。社会か、それとも身体か。

 

Individual――個人とはそれ以上分けようのないもの。つまり誰にも分け与えられないもの、その人だけのものである。

何が?当の自分自身であり、それでもって生きる人生が、である。 

つまり個人というのは、この身体と身分は「私の」であるという自覚をもった者であって、それは他人に不当に身体も身分も利用されないということが含意されている。自己に対する決定権をもつのが個人であり、他人に対しては決定権をなんら有しない。

身分はおろか身体すら「私の」である(よって不当に利用されてはならない)と認められず、家族や社会に都合のいいように使われている状況で個人もなにもないのだ。

日本において個人となるには異端とならなければならない。家族や社会から特別だと思われ、勝手気ままにさせておく方が自分らにとってもよさそうだと認められてようやくなれる。家族や社会が身体と身分の所有を“許す”のである。それでいて必要があればいつでも取り上げられると彼らは踏んでいる。

本来であれば個人は自らなるのであるが、日本では家族や社会のお墨付きがあってようやく“与えられる”。つまり、身分としての個人という矛盾がそこにはある。勝手に身体と身分を我が物とするのは「我が儘」だと非難される。

身体と身分を自ら我が物とみなす意識が自我である。自我は身体と身分から離れえない。よって身体と身分が不当に利用されている状態では自我もまたそれに引きずられてしまうが、それは我が物であると奪い返さなくてはならない。その過程で身体と身分を「我が儘」とすることを呑ませる必要がある。

 

たとえば、この職場で働く身分となることを親に呑ませる。この人とともに過ごす身体であることを親に呑ませる。

私は私の選んだ身分として、私の決めた身体として生きることを親に呑ませるのである。

親はいまや「私の」となった身体と身分に対してずいぶん長いこと実効支配を続けてきたものだから、しばしば勘違いをする。まるで子どもの身体と身分が自分らのものであるかのように錯覚する。そのようなことは全くない。むしろ身体と身分について、子どもの方から親に一時的に権利譲渡されていただけである。

この身体と身分の正統な、本来的な所有者はこの私なのである。私が身体と身分を自ら我が物であるとみなすほど成長したあかつきには、親は私から預かっていた権利をすべて元の持ち主である私に返さなければならない。

そのとき私は親に対して、この身体と身分を適切に扱ってくれたことを感謝するのだ。もし親が不適切な扱いをしてきたり、なおも我が物としたりしてきた際にははっきりと抗議する権利がある。私は私の身体と身分を守るために親と対峙する。私には守らねばならないものがあるのである。

この身体と身分を、一人前の身体と身分を私はこの手で守る。親に権限を譲渡していたころの私はたしかに半人前であった。しかし私はこの身体と身分を我が物として、一人前となった。親の手元にはもう私の身体と身分に関して行使できる権限はないのである。

 

個人とは、身体と身分を我が物とする意識であるところの自我をもつにいたった、一人前の“この私”である。