卒業論文第二章「所与として投げ入れられた世界」

持続可能な福祉世界を将来する哲学的思索――「定常化」はわれわれを「本来性」へと連れ戻すか

第二章   所与として投げ入れられた世界

 長年に亘って困窮した状況に置かれていると、その犠牲者はいつも嘆き続けることはしなくなり、小さな慈悲に大きな喜びを見いだす努力をし、自分の願望を控えめな(現実的な)レベルにまで切り下げようとする。――アマルティア・セン10)

第一節              生まれる世界を選べない

第一項     自由な人生か

まず舞田敏彦(教育学)が世界価値観調査(World Value Survey)の2010-2014版をもとに作成した下図[i]を見てもらいたい。「自分の人生をどれほど自由に動かせるか(How much freedom of choice and control over own life)」に対する各国の20代の回答である。

 

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 これを見て分かるように日本は最下位に位置している。すなわち、他国と比べて日本の若者は人生が自由ではないと感じていることが分かる。日本と比べると、スウェーデン(図中、瑞)はそれよりもずっと上に位置し、アメリカ(米)はスウェーデンより0.5点ほど低い位置にある。また両国とも男性より女性の方が人生を自由に感じている。これを見て、国民性の違いだと言う人もあるかもしれない。いわく、日本人は消極的であると。もうそうだとして、それは裏を返せば、日本は自分が自由であると“自由に”表明できない社会であるということにはならないだろうか。結局、国民性なるものに回収しても結果の否定には至れない。それどころか結果を裏づけることすらありうる。事実として、日本の青年が感じている自由度は他国の青年より低い。相対的にであれ人生が不自由であることは、人々の生きる社会が不自由であるとも言えよう。

 だがそもそも自由であるとか不自由であるといったことはどのような状態だろうか。自由とは「自ラニ由ル」、不自由は反対に「自ラニ由ラズ」と解せる。では“何が”自らに由ったり由らなかったりするか。それにはたとえば行動や判断があろう。「自由」とは行動や判断が自らに由って、すなわち自分自身に由来してなされていることであると考えられる。その行動や判断をしたのは“私がそうしようと選んだから”だ、というわけである。そうなると「不自由」とは、その行動や判断を“私が選んでいない(にも関わらず選ばれた)”ということになる。ではこのとき、私の代わりに選んだのは何ものなのか。何に由来してそれは選ばれたのか。自由や不自由をこのように考えると、日本の青年が感じている不自由とは「人生の選択が“自分に代わって何ものかに”なされている」という状態なのだ。その正体はいわゆる「世間」と「空気」である。

 

第二項     世間と空気が覆う人生

 突然だが“KY”という言葉を覚えている人はどれだけいるだろうか。2007年の流行語対象にノミネートされるほど流通したこの言葉は“Kuuki wo Yome”(空気を読め)ないし“Kuuki ga Yomenai”(空気が読めない)の略称である。これは場にそぐわない言動をしたり、できなかったりした人に対して主に使われた言葉である。しかし筆者の感ずるところ、これが発せられるときにはもっと踏み込んだ意図があったように思われる。「空気」を読めるかどうかはいわば、その場の成員であるか否かという分水嶺として機能している。それを読めないことは成員としての資格停止、あるいは剥奪の理由となる。「空気を読め」とは成員としての資格を復活させたくば場を弁えろということであり、「空気が読めない」とは同じ成員としてやっていけないということなのである。

 このように「空気」はその場にいるものの振る舞いを規定する筋書きのようなものであり、規定された振る舞いをとらない者はその場からやがて除かれる。作家で演出家の鴻上尚史はその著書(2009)11)で、「『空気を読む』とは“日常というテレビ番組”に出演するようなものだ」とした作家・藤原智美の表現を紹介している。さしずめ私たちは「空気」という台本を読まされて、それに沿って演じなければ舞台から降ろされる役者である。厄介なことに「空気」は目に見える台本ではない。その場にいる人々の振る舞いから“察する”かたちで読み取らなければいけない。「空気」が支配する場において“自らに由って”振る舞うなどとうてい認められず、空気に由ってのみ振る舞うことができる。その「空気」について鴻上は前掲の書の冒頭で「『空気』とは『世間』が流動化したもの」であるとしている。では「世間」とは何で、それが流動化したとはどういうことだろうか。

 鴻上は「世間」を“自分に関係のある世界”とし、「社会」をそれに対置させて“自分に関係のない世界”としている。鴻上は、電車の席を友人の分だけ確保して待つ女性の例を引いて、彼女が「世間」(友人)には関心があっても「社会」(友人以外)には関心がない様を伝えている。彼女は他に席が必要な人がいるとは露とも思っていないというわけである。なぜなら彼女にとって気を遣う相手は「世間」であって「社会」ではないのだから。こうして「社会」と対比させた「世間」に鴻上は5つのルールを見ている。それは贈与・互酬の関係、長幼の序、共通の時間意識、差別的で排他的、神秘性である。言い換えれば、立場上の利害関係がある、年齢の上下で立場が決まる、個人の時間はない、身内にしか関心がない、無根拠な振る舞いが支配的といった具合である。これらは全て、その人がどういった人であるかとは無関係に定まる。何を考えているかとか感じているか以前に、“そういうものだから”として「世間」のもとにある人は受け入れるほかない。いや、受け入れるというよりも「世間」に呑まれてしまっている。自分が「世間」的な振る舞いをしていること自体に気づいていないのである。

 そして鴻上はこのような「世間」のルールのうち欠けたり揺らいだりしているときに感じるのが「空気」であると見ている。すなわち、“そういうものだから”という「世間」が、“さしあたり今はこうである”というかたちで現れるのが「空気」である。そこには、いつかは変わるかもしれないがという含みがある。だから鴻上は「空気」を「世間」が流動化したものとみなすのだ。“KY”と関連して考えると、「空気を読め」とは欠けたり揺らいだりした「世間」を補強せよということであり、「空気が読めない」とはその作業を怠ったということである。

 前掲書の後半で鴻上は時勢が移り変わるにつれて「世間」がほつれ、それがために「空気」があちこちで生じており、若者が「空気」に苛まれている様に言及している。上記で日本の20代が自らの人生を比較的不自由に感じていることを述べたが、その原因と呼べるものが「空気」であり、いまだ根強い「世間」である。その「世間」は日本においてつねにすでに存在している。鴻上は「世間」がもつそうした性格を「所与性」と呼んだ。それは「自分が選んだものではなく、知らないうちに巻き込まれ、そこにすでにあるもの」(p.66)である。日本で生まれた人は自分で選んで生まれてきたのではない。つまり彼らにとって日本は所与である。それがすべてではないにしても、日本の青年は明らかに“日本の”影響を受けている。日本にいて日本的な影響下にないことは無理に等しい。

 とはいえ、私はこのことを“日本人だから”という観点から考えて、いわゆる日本人論として語ることはしない。それは結局、日本人とは“そういうものだから”という「世間」の枠内で論じることと変わらないだろう。「日本人論」という言い方にはすでにある一定の日本人像を前提としている。これを海外の人に端的に伝えることはできるだろうか。鴻上の言うような「社会」の人に、日本と関係のない人相手に「日本人論」を語ったところで、だからどうして日本人はそうなのだ?と返されてお終いではなかろうか。「空気」と「世間」の問題において根底的であるのは「日本人」であることではない。「日本人」が日本につねにすでに“存在してしまっている”ことそのものである。日本という所与よりいっそう所与的であるこの原‐所与にこそ目を向けなければ、ことの本質に至ることはできない。

 

第二節              われわれは存在させられている

 すでに存在してしまっていること、これを原-所与とした。われわれはつねにすでに世界に存在してしまっている。というよりも、存在“させられて”しまっている。誕生を日本語では“生まれてきた”というが、英語では“I was born.”であり、その受動性が一目瞭然である。自分が望むと望まざるとに関わらず、われわれはこの世界に生まれさせられた。直接的には母親の胎内からだが、しかし母親とて卵子精子を“意識して”受精させたわけではない。自ずから受精はなったのだ。それはやがて母親の身体に変調をもたらし、胎児が宿ったこと、つまり胎児の「存在」を気づかせる。この「存在」は二重の意味である。それは存在するもの(胎児)としての存在のみならず、胎児が“存在することそのもの”としての存在である。いわば存在が胎児を存在させるのである。

 このように存在を存在するものではなく、存在させることから捉え直したのがドイツの哲学者ハイデガーである。その彼が言うに、謂われもなく存在していることが一度気になると気になってしかたないのが、現に存在してしまっている現存在であるところの存在者、すなわちわれわれである。われわれは実のところ存在することそのものについて日常的にはまったく考えもしないのに、何かが存在するかしないかを語ることができている。しかもそれは具体的な物に限らない。この論文を書いている私は参考文献が手もとに“ある”と言えるし、期限までもう時間があまり“ない”とも言える。ただし私はその“ある”とか“ない”といったことの中身について厳密に考えて言っているわけではない。文献があるから参照できるとか、時間がないから区切りをつけて書き上げようと思うなかでそれらを把握しているだけである。ハイデガーは「存在」を問うにあたって現存在があらかじめ存在について日常的に知っていることを『存在と時間』で手がかりとした12)。さらに現存在は自身についても前もって知っている。

私たちはその平均的存在了解のうちでつねにすでに動いており、だから結局、この存在了解は現存在それ自身の本質的体制にぞくしているのである[1]。(¶21)[8]

現存在はじぶん自身をつねにみずからの実存から、つまり、じぶん自身であるか、じぶん自身ではないかという、みずから自身の可能性から理解している。(¶36)[12]

 けれど改めて考えてみると、われわれはなぜ存在や自身について日常的にであれ知ることができているのか。それは現存在がその根本体制において「世界内存在」だからである。

 

第一項     世界内存在であるわれわれ

 「世界内存在」という言い方で表されていることは、世界“外”存在があることでは決してない。そのように内外や主観客観といった西洋哲学で伝統的にとられてきた見方をハイデガーは退ける。「世界内存在」は「世界のうちで」(¶155)、そのつど世界内存在という様式で存在している存在者(¶156)、内存在そのもの(¶157)に分けて捉えられる。これはすでにある世界で、その世界にいる者として、その世界に親しんでいることと言えよう。このすでにある世界には当然、すでにいる者がある。たとえば子どもにとっての親である。子どもはすでに親がいる世界のもとで、あれこれを真似たり習ったりして物事を覚えていく。はじめ親が呼ぶように自分を名前で呼び、やがて他者に応答する者として「私」を口にする。高田(201413))が指摘するように「そもそも自分の存在が意識されるのは、他者との区別や関係においてである」が、しかし「いつも他者との関係において自分を見るというのは、結局、他者の支配に服し、自分を見失うことに繋が」ってしまう(p.211)[2]

第二項     現存在の日常性・非本来性

ひととの関係において生きるとき、現存在自身が「ひと」なのだ。「ひと」はたいてい自分自身として生きているのではなく、自分が世間的な営みとして行っているものになっている(同)[3]

 これはまさに前項「世間と空気が覆う人生」で見た内容に重なる。山本七平が「空気」の正体と見ている臨在感的把握はこの「ひと」があたかもその場にいて、場の成員を監督しているかのように捉えていることとも言えよう15)

 われわれはつねにすでに存在させられてしまっているがゆえに、それ以前からすでに存在してしまっている世界や「ひと」との関わりから逃れることができない。日本に生まれたなら日本の、日本人に囲まれて育ったなら日本人の影響を不可避的に受けて生きている。しかし、その人生は「ひと」のものであっても、自分のものではない。「人は誰しも」や「みんなは」という言い方で名指されているのは特定の誰かではなく、誰にでも妥当しうるものとして考えられている「ひと」なのである。

 〈ひと〉[4]とは特定のひとではなく、総和としてではないにしても、〈みな〉である。〈ひと〉が日常性の存在のしかたを指定しているのだ。(『SZ』(¶350)[127])

 こうして現存在の日常的なあり方は「ひと」によって定まる[5]。しかしこのことは現存在を安逸な方へ、すなわちハイデガーが言うところの「非本来的」あり方へと現存在を連れていく。「ひと」とはいわば範型であって、それに合致したりそれが妥当したりする間は現存在が個別に振る舞わずとも済む。日常性への没入は「頽落」である。その日常性が意義を失うとき、現存在は根本的な不安に襲われる。

 

第三項     現存在の頽落と不安

 非本来的に存在しているとき現存在において「じぶん自身〈ではない〉ことが、存在者の積極的な可能性として機能して」(『SZ』(¶501)[176])おり、さしずめ「自ラニ由ラズ」に行動や判断することが「世間」や「空気」のもとで肯定されることに似ている。そうして頽落は「空談」「好奇心」「あいまいさ」(同¶500)[175]]から特徴づけられる。空談とは会話のための会話であり、内容が伴っていない。好奇心とは見ようとすることであり、野次馬やパパラッチに通じるものがある。あいまいさとはなんとなくそう思っていた程度のことが当たると“ほら、やっぱり”と口にするわりに、何をどう思っていたかは定かでないことである。たとえば、ワイドショーをよく見て、そこで語られたことを受け売りに話し、たまたま話に上った憶測がのちに放送されると言った通りだと頷くようなものである。

 留意したいことはハイデガーがこういったことを“否定的に見ているのではない”と言っていることである[6]。読む方としてはそこに非難を見て取ってしまうが、肝心なことはそれらが〈ひと〉に没入していれば当然に生じるであろう点にある。言うなればある種「自然現象」である。手前のドミノが倒されると後続のドミノも倒れるように、日常性にあって現存在は非本来的存在へと傾き、頽落へとすべっていく。ただし、このような「世間」性はハイデガーも参照したであろうキルケゴールにおいては徹底的に批判されている。

どうでもよいことが、世間ではいつでも問題にされるのである。つまり、どうでもよいことに無限の価値を与えるのが、世間というものなのである。世間的な考察は、いつも人間と人間とのあいだの差別にのみ執着し、だからまた当然のことであるが、唯一の必要なもの(これをもつことが精神の精神たるゆえんなのだから)に対する理解を持たず、それゆえにまた、偏狭さと固陋さに対しても理解をもたない、これはつまり、自己自信を失っていることにほかならない16)(p.64)

 ハイデガーが『SZ』でキルケゴールに言及するのは次に取り上げる「不安」について述べるなかにおいてである。キルケゴールのなした不安の分析について評価しつつも、その限界に言及している[7]。ではハイデガー自身は不安をどのように捉えたか。

 ハイデガーは現存在の根本的情態性として「不安」を位置づける。それは頽落している現存在を本来性へと向かわせうる契機として表れる。不安について分析するさい、ハイデガーはそれを「恐れ」と区別する。恐れは「世界内部的な存在者」に対して、それが「脅かすもの」であることを明らかにする。しかし不安においては世界内存在そのものがその対象である。不安の所在はどこかにあるでもなく、むしろどこにもなく、それ全体として迫ってくる。それは不安が、もはや日常的に理解されたあり方が通せず世界が無意義と化したさまを露わにするためである。

不安にあっては、周囲世界的に手もとにあるもの、一般に世界内部的な存在者は沈みこんでしまう。「世界」はもはやなにものも呈示することができず、他者たちの共同現存在も同様である。不安はこうして、「世界」と、公共的に解釈されたありかたとにもとづいて頽落しながらじぶんを理解する可能性を現存在から奪ってしまう。(『SZ』(¶543)[187])

 不安は非本来的なあり方の現存在においてつねに潜在している。それが露出したときに現存在はわけも分からず苛まれる。わけが分からないだけに、それが過ぎ去ったあとには“何でもなかった”かのように思われもする。また不安は現存在の根底に伏しているが、その現れは個々の現存在においてである。それまでの日常において妥当していたことがふとまったく通用しなくなったとき、その場に居合わせた個々の現存在の情態に現れる。だが、不安に襲われることで現存在はじぶん自身が世界に自体的に存在しているのではなく、つねにすでに存在させられてしまっていることに気づくことになる。その事実の“もとで”安逸に流れるか、その事実の“うえで”果断に生きようとするかが非本来性に留まるか本来性へ向かうかの分水嶺となる。

単なる「恐れ」とは異なり、「不安」は、世界のなかで出会われる特定の物事に脅かされることによって生じるものではなく、その「対象(Wovor)」は、そもそも「自分が世界内存在してしまっている」という根源的被投性の事実そのものである。私は圧倒的に受動的な仕方でこの事実に当面しつつ、なおも不断に「おのれに先んじて」、自己の世界内存在の可能性へと委ねられざるをえない17)。(古荘真敬、p.75)

 こうして不安が明らかにしたことは「現存在がじぶんに先だって存在していること」(『SZ』(¶555)[192])であった。そこにハイデガーは世界内存在の本質として「気づかい」を見る。その気づかいは「~のもとでの存在」(配慮的気づかい)と「~のうちですでに存在していること」(顧慮的気づかい)として捉えられた(『SZ』(¶559)[193])。そして気づかいにおけるこの「じぶんに先だって」いるあり方は「もっとも固有な存在可能」に関わる。その「もっとも固有な存在可能」とは自分自身の「死」である。死は確実に到来するが、「ひと」はいつかやってくる(今はまだ来ない)こととしてさしあたりその切迫さから目を背ける。現存在が本来性へと向かうのは、この死を“じぶん自身”の終わりとして引き受けると「先駆的」に「決意」した場合である。

 

第四項     現存在の先駆的決意・本来性

 では現存在はいかにしてその決意にいたるのか。ここでハイデガーは「良心」に独自の意味を込めて、現存在に「負い目」があることを告げるものとして導入する。それは「現存在の被投性、とりわけ、自己の根拠を自ら置いたのではない(nicht)という性格、すなわち、非力さ(Nichtigkeit)」18)(佐々木一也、p.466)を自覚させる。すでに何度か述べた、現存在がつねにすでに存在してしまっていること、存在する謂われなく存在させられてしまっていることが現存在にとって「負い目」となるのである。極端に言えば、現存在は別に生まれてこなくとも構わず、それでいて死ぬことが確実である。それでも、あるいは、だからこそ本来的であるには「自ラニ由ッテ」“じぶん自身”が存在する根拠をもとうとしなければならない。

みずから選択した存在可能の〈なにのゆえに〉にもとづいて、決意した現存在は、みずからの世界に対してじぶんを開けわたす。じぶん自身への決意性が現存在を、はじめてつぎのような可能性へともたらすのである。つまり、共同存在している他者たちを、そのもっともと固有な存在可能にあって「存在」させ、この存在可能を、先だって飛び-解放する顧慮的な気づかいのうちでともに開示する、という可能性である。(『SZ』(¶898)[298])

 それまで「ひと」として規定されるがままだった現存在は「先駆的決意」によって初めて、他者をも「そのもっとも固有な存在可能」において、「存在」させることが可能になる。すなわち他者をして「ひと」から本来的な“じぶん自身”へと向かわしむることができるようになるのだ。同じ個所でハイデガーはそうした現存在が「他者たちの『良心』となることがありうる」と述べている。

 これまでをまとめると、世界内存在としてつねにすでに世界へ投げ入れられている現存在であるわれわれは、その世界が意義を失ったおりに露呈する不安によってその存在の薄弱とした根拠が明らかとなったことから、本来的に“じぶん自身”であるために、存在根拠の乏しさを受け入れることを決意し終わりとしての死に先駆けることが要請される。こうして、この節ではハイデガーの哲学に依拠しながら人間の根底的あり方を見た。

 このことを踏まえて第一章「不安の時代」を改めて考えると、いわば現代は一人ひとりがというよりも人間そのものが不安にさらされ、根底から存在の「なにのゆえに」が問われていると言えないだろうか。これまでは経済成長が、言い換えればパイの拡大が何もかも解決するとされ、それが続く限りで人々はたしかに安心してこられた。日本では1970年代の石油危機にいっとき経済成長の見直しが図られたものの[8]、しかしその危機を逆手にとって更なる経済成長を遂げることができてしまった。結局のところ、そのとき経済成長について根本的に考えることをしなかったがために、もはやパイの拡大による解決が望めないわれわれは立ち往生している。はたして、われわれは「なにのゆえに」存在するのだろうか。われわれの生きる社会もまた「なにのゆえに」存在するのだろうか。第三章ではそのことについて考えたい。

 

[1]存在と時間』を参照するにあたって以後、『SZ』と略し熊野純彦訳から引用する。()は段落の通し番号、[]は原書の頁を表す。強調はとくに断りがない場合、原書による。

[2] 他者との関わりで自我をもつことはG.H.ミードの言う「一般化された他者」を想起させるが、そこでいう自我は「ひと」(das Man)のそれであって、誰か特定の自我それ自体にはなりえないように思われる14)              Mead, George Herbert,船津, 衛,徳川, 直人:社会的自我 恒星社厚生閣 1991。

[3] 二番目の強調は筆者。

[4] 高田の用いる「ひと」と熊野訳における〈ひと〉の意味内容は同じである。

[5] 重ねて言えば、日本における「世間」と「空気」はその生じ方こそ日本独特であっても、根底的には日本特有の現象では必ずしもないだろう。

[6] 『SZ』(¶474)[167]、同(¶501)[176]

[7] 『SZ』(¶551)[190]欄外1

[8] たとえば77年に経済企画庁国民生活局国生活政策課(当時)が出した『これからの生活と自由時間』には次のような一文がある。「人々はこれまでのただ働くだけという仕事中心の社会通念や慣習から脱し、……人間として生きがいを探し始めたのである。このことは人々が仕事を放棄し遊び呆けるようになったということでは決してない」(p.25)ともすると今日における言説として提出されてもなんら違和感がない。

 

[i] 舞田敏彦「自分の人生をどれほど自由に動かせるか」『データえっせい』2014年5月8日木曜日http://tmaita77.blogspot.jp/2014/05/blog-post_8.html

 

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