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卒業論文第三章「所有として引き受ける人生」

持続可能な福祉世界を将来する哲学的思索――「定常化」はわれわれを「本来性」へと連れ戻すか

第三章   所有として引き受ける人生

 運命がその力を発揮するのはそれに抵抗できるよう力が組織されていない場合であり、それを防ぐべき堤防や堰がないことが明らかな所にその猛威を向けるものである。――マキアヴェッリ19)

第一節              それは誰の人生か

 まず考えたいことは、この人生を私の選択や決断によって生きられないとして、それをなお“この私”が生きねばならない理由はあるのか、ということである。そこで生かされるのが“この私”でなければならない理由が私になければ、他の誰にならあるというのか。どこにあるのかと問うこともできよう。それは「世間」なのか。人生とは人の生きることであるが、ではそこでいう人とは誰なのか。むろん、本来ならそれは私、つまり個人でなければならないはずである。

 個人というのは、この身体と身分は“私の”であるという自覚をもった者であって、それはつまり他人に不当に身体も身分も利用されないということが含意されている。自己に対する決定権をもつのが個人であり、他人に対しては決定権をなんら有しない。もし社会的身分はおろか身体すら私のである(よって不当に利用されてはならない)と認められないならば、すなわち家族や「世間」に都合のいいように使われている状況ならばそこには個人もなにもない。

 しかし日本において個人となるには異端とならなければならない。それというのも第二章で触れたように日本の「世間」では「自ラニ由ッテ」行動したり判断したりすることは許容されていないからである。家族や「世間」から“特別”だと思われ、勝手気ままにさせておく方が自分たちにとっても都合がよさそうだと認められてようやく個人であることが認められる。家族や「世間」が身体と身分の所有を私に“許す”のである。それでいて必要があればいつでも私から取り上げられると彼らは踏んでいる。本来であれば個人は自らなるのであるが、日本では家族や社会のお墨付きがあってようやく“与えられる”。つまり、身分としての個人という矛盾がそこにはある。勝手に身体と身分を我が物とするのは文字通り「我が儘」であると非難される。

 このように家族や「世間」の支配下で許される個人だが、本来の個人には自我が備わっている。身体と身分を自ら我が物とみなす意識が自我である。自我は身体と身分から離れえない。よって身体と身分が不当に利用されている状態では自我もまたそれに引きずられてしまうが、それは我が物であると奪い返さなくてはならない。その過程で身体と身分を「我が儘」とすることを呑ませる必要がある。たとえば、この職場で働く身分となることを親に呑ませる。この人とともに過ごす身体であることを親に呑ませるといったように。つまり私は私の選び決めた身分として、身体として生きることを親に呑ませるのである。

 とはいえ、親はいまや私のとなった身体と身分に対してずいぶん長いこと実効支配を続けてきたものだから、しばしば勘違いをする。まるで子どもの身体と身分が自分らのものであるかのように錯覚する。だが、そのようなことは全くない。むしろ身体と身分について、子どもの方から親に一時的に権利譲渡されていただけである。この身体と身分の正統な、本来的な所有者はこの私なのである。私が身体と身分を自ら我が物であるとみなすほど成長したあかつきには、親は私から預かっていた権利をすべて元の持ち主である私に返さなければならない。そのとき私は親に対して、この身体と身分を適切に扱ってくれたことに対して感謝するのだ。親が不適切な扱いをしてきたり、なおも我が物としたりしてきた際には判然と抗議する権利がある。私は私の身体と身分を守るために親と対峙する。私には守らねばならないものがあるのである。

 この身体と身分を、一人前の身体と身分を私はこの手で守る。親に権限を譲渡していたころの私はたしかに半人前であった。しかし私はこの身体と身分を我が物として、一人前となった。親の手元にはもう私の身体と身分に関して行使できる権限はないのである。個人とは、身体と身分を我が物とする意識であるところの自我をもつにいたった、一人前の人間である。そのように「自ラニ由ッテ」あることが個人の必要条件なのだ。その個人が生きる人生は当然、“この私”の人生でなければならない。

 ここでひとつの問題が浮上する。その人は“どこで”生きるのか、“どのように”生きられるのかという問題である。人は真空で生きるわけではない。そして、すでに見たように人間はつねにすでに世界へ投げ入れられている。人が生きるためには、その世界が人にとって生きられるものでなければならない。すなわち、人が生きるためには生きられる世界が不可欠であり、その保障を行うのが次に取り上げる生活保障となる。

 

第二節              生活保障の意義

第一項     生活保障とは何か

 まず生活保障という言葉の中身を明確にしておきたい。宮本(2009)20)は生活保障を「雇用と社会保障を結びつける言葉である」としている。これまでの社会保障は企業の福利厚生の存在を前提としているもので、主たる稼得を担う正社員の男性やその妻に子ども、老いた父母が対象となっていた。しかし今や正規社員となることが難しく、かつての安定雇用など望むべくもないなかで企業の福利厚生も以前より劣化し、社会保障は支出増大の一途を辿っている。働くことや働き続けることを可能とするために、宮本は積極的な雇用政策の必要性を説く。同時に、社会保障が一時の所得中断や退職後の年金となった、いわば例外的事態に備えた消極的な性格をもっていたことを見直し、雇用の流動化や高齢者の増加を踏まえて積極的施策を展開すべきであると論じる。

 このような宮本の「生活保障」に私もおおむね同意だが、しかし物足りない点もある。それは教育政策であり、家族政策である。どれほど雇用と社会保障が一体化しようとも、子どもが親の事情で就学ないし進学できなかったり、女性のみが家事と育児の負担を背負うばかりだったりしては、しょせんそれは成人男性の生活保障にしかなりえないのである。働けることのみの保障に留まるのでは、働けない人々への給付の意味合いが強かった社会保障と大差ないのではないだろうか。これは、近年貧困に変わる概念として取り上げられる社会的排除が結局は語られる内容の大部分が労働市場からの排除に過ぎず、その根本的な問題を取りこぼしてしまっているような過ちと同様に思われる。つまり、どちらも社会と言っておきながら労働の話しかしていないのである。社会保障を生活保障と呼び換えたところで、この宮本の視点に留まる限りではなお狭い[1]。生活保障とは労働のほかに教育や家庭、換言すれば賃金労働以外の場を含めてこそ、その名の意味があると私は考える。

 よって以後、生活保障という言葉は日本でいう社会保障に加えて、雇用政策のみならず教育政策や家族政策も含んだものとして用いる。これから取り上げるスウェーデンにおいてはもとよりそれらを含めて社会保障であるかもしれないが、日本における社会保障との差異を明確にするためにも生活保障として扱う。

 

第二項     日本とスウェーデンの生活保障比較

 生活保障を論ずるにあたって日本とスウェーデンの生活保障比較を行う。第一章で見たように日本の青年は他者との関わりのなかで自尊感情と自己有用感を養い、人生に対して前向きになる傾向にあった。その彼らが人生に不自由を感じるのは社会的経済的不安によって自尊感情と自己有用感が損なわれているからであると考えられ、その回復には社会的、経済的サポートが必要不可欠と考えられる。これまでの日本は単線型ライフコースであり、受験や就職の失敗、失業はそのライフコースからの逸脱を意味した。社会の多様化や雇用の流動化にあってはかつての単線型ライフコースはもはや機能しなくなり、「人財育成の複線化・再挑戦しやすい環境の整備を含む」複線型ライフコースの導入が求められていよう[i]

 人生を自由に生きるためにはそれを支える制度と、なによりそれを生きる自分自身の主体的な選択と決断が欠かせない。複線型ライフコースは人生の自由を確保するうえで必然的に要求されるのである。単線型からの脱却を図りつつもいまだ確固たる複線型ライフコースの整備がされていない日本にあって、それを実現していると思われるスウェーデンの事例は示唆に富むと思われる。

 よって、この節で明らかにしたいことは、人生の自由を可能にする複線型ライフコースとはいかなるものであるかということである。人生を自由に動かせるということはそれだけ不安が少ない、あるいは選択肢が豊富に与えられているといったことが考えられる。裏を返せば、人生への不安が多く、また選択肢が限られているとき人生を自由に動かせないと感じるだろう。人生の不安を除去し、選択肢を提供する役目を担うのは社会保障[2]を含む生活保障である。以下、日本とスウェーデンの生活保障を比較し、人生の自由を可能にする社会制度について考察する。

 なお活保障のうち、なかでも教育政策、とりわけ高等教育に関する政策に着眼する。それというのも、高等教育が義務教育でないことから明らかなようにそれは親にとってというよりむしろ子ども自身にとって選択と決断の対象となるものだからである。つまり、進学するかしないかが本来的には本人の一存にかかっているのである。教育政策の充実は経済面での不安を取り除き、子どもの親の経済事情に依存することなく進学できる仕組みの整備を意味する。それは子どもが自らの身体と身分を我が物とする自我の形成および個人として人生を生きるために大いなる影響を与えるものである。

 

日本の教育をとりまく事情

 日本はOECD加盟国のなかでも教育への支出自体は多いものの公的支出が少なく、私的部門に大きく依存していること、しかも在学者一人当たりの教育支出は増加している(特に高等教育において)ことが特徴である[3]。公的投資の対GDP比は増えているものの加盟国中最低の値である[4]。さらに日本の人材は女性を中心に相当程度が十分に活用されていない[5]。日本では生活保障としての教育政策はほとんどとられていないと見るのが妥当だろう。

 高等教育への支出の大部分を私的部門が占めるということは、日本において高等教育に進学するまで親と同居していることが一般的であることからして、家計の負担が多いということである。すなわち、子どもが進学できるか否かはその家計の経済状況に著しく依存するのである。実際、両親の年収が低いほど4年制大学への進学率は低くなることが東京大学の調査で分かっている[ii]。進路選択はその後の人生に多大な影響を及ぼすものであり、子どもができるだけ家計の事情に左右されないための支援や制度が求められる。

 そこで教育負担の多くを家計負担が占める日本にあって家計を助ける奨学金について見てみたい。奨学金高等教育を受ける学生とその家計にあって、いかなる役目を果たしているだろうか。乏しい教育政策にあって奨学金が果たすものは重大である。資料は東京大学の「諸外国における奨学制度に関する調査研究及び奨学金事業の社会的効果に関する調査研究」報告書[iii](奨学制度報告書と略す)における第14章(「無理をする家計」再考)と第13章(奨学金が学生生活に与える影響)を参照する。

 「無理をする家計」で著者の岩田は、家計的に苦しいながら相当無理をして大学へ子どもを送り出している家庭に小林雅之が名づけた“無理をする家計”の再解析を試みている。高等教育の私費負担は当然低所得の家計においてより大きな問題となる。岩田は大学教育を支出した後に残る家計所得が250万円以下である家計を“絶対的に無理をする家計”とし、奨学金を受けとることがなければ250万円以下となる家計を“潜在的な無理をする家計”とした。以下、岩田の再解析のまとめを一部抜粋する。

(1) “絶対的に”「無理をする家計」は学生全体の 9.8%,“潜在的な”「無理をする家計」は 3.3%、「家庭からの給付なし」学生は 9.8%存在する。以上すべてを加えた数字が,家計を維持するためにも,「経済的支援の必要度が高い学生」とみなせば,それは約2割に達する。

(2)これら「経済的支援の必要度が高い学生」にとっては,奨学金と授業料免除が実質上,「家庭からの給付」を補う,大きな公的経済的支援策として機能している。とくに学生支援機構奨学金は,その恩恵を受けている学生・家計の規模からみて,きわめて重要な機能を担っている。(p.347)

こうしてみると,とくに「無理をする家計」を中心とする,高等教育進学機会の提供に関して,現段階でも奨学金,なかでも学生支援機構奨学金が,重要かつ多大な役割を果たしていることは明らかである。しかし,“絶対的に”「無理をする家計」に代表されるように,まだまだ家計による大学教育費負担は過重であるともみなせる。……また,とくに「家庭からの給付なし」の学生についていえば,授業料を中心とする学費を確保するために行わざるをえないアルバイトの負担が,重くのしかかっているという現状も,考慮する必要がある。(p.348)

 岩田によれば「経済的支援の必要度が高い学生」は調査対象全体の2割を超える。そのうちの半分近くは無理をしてでも子どもを大学に通わせている家計である。これは仮定の話だが、そのように家計が切迫しながらも大学へ進学した子どもがもし就職できなかったとしたら、どうだろうか。あれだけ無理をしたのに/させたのに、という親の嘆きや子の無力感が通常の家庭よりも強まることは想像に難くない。一方で家庭からの給付がない学生は学費確保のためにアルバイトに時間を振り向けざるを得ず、本業である勉学に差し障りが出かねない状況もある。大学進学においては、それをしないで就職していれば得られたであろう機会費用があり、進学しながらもアルバイトに迫られる毎日ではまるで掘った穴を埋め返すようなものである。家計における奨学金の重大性を確認するとともに、アルバイトの負担に言及しているのは「奨学制度報告書」で第13章を執筆した藤森も同様である。

 「奨学金が学生生活に与える影響」と題して学生生活を調べた藤森によれば「設置者(国公立・私立)に関係なく,奨学金によって,家庭からの給付額は抑制されている。そして,その傾向は,基本的には変化していない」 として奨学金の効果を確認している。しかし「アルバイト収入に対する奨学金の効果は,1996 年度は国公立に対して見られたが,2004年になると,いずれの場合も観測されなかった。よって,奨学金によって,学業への負担であるアルバイトを抑制しているような状況ではなくなっている」(p.291)として奨学金をもらいながらアルバイトする学生の増加を示唆している。

 さらに奨学金を取り巻く事情は日本において悪く、それは何よりも奨学金受給率の少なさに表れる。日本は韓国と同様に授業料が高いながらも学生支援が比較的整備されていない国であり、授業料はアメリカに次いで高い[iv]。公的な奨学金が貸与しかなく、いずれ返さなくてはいけないこともあってか、奨学金を借りない選択肢をとることも少なくない。前出の岩田によれば“絶対的に無理をする家計”で「奨学金も授業料免除」も受けていないのは3割に達する[v]。東大の調査においても年収400万円以下の家庭で「奨学金を借りたくない」という回答が約4割あることが分かっている[vi]

 以上、日本における教育政策として奨学金を取り上げてきたが、奨学金が家計にとって重大な効果をもつ一方で、それを忌避する向きがあることも分かった。それは何より奨学金が貸与であることに起因するだろう。しかし、これに関連しつつも異なる問題があると私は考える。それは奨学金の申請にあたって子どもが親の助力を請わなければならないことである。問題の焦点を明確にすると、奨学金とは誰に向けたものなのか、すなわち学業に勉める当の学生のためなのか、それともその学生を扶養する家庭のためなのかということである。日本の奨学金は所得制限があることからも明らかであるように、低所得世帯の進学や就学を支援する性格のものだが、しかし重度の貧困家庭においては親が家を留守にしがちであったり所得を証明するものがなかったりして書類を完成できない、つまり申請できないおそれがある。機能不全家庭にあってこそ子どもが単身そこから抜け出して教育を受け、一人で身をたてられるように支援すべきであるのに、現状ではそうなっていない。

 日本の奨学金はあくまで子どもを進学させる親のためにあるのであり、親が子どもを進学させようと思わなければ、子どもは進学したくとも経済的事情から困難をきわめることになる。世帯向けの奨学金は結局のところ経済的事情も含めて親に左右される子どもを、根本のところでは支援していないのではないだろうか。大学授業料を撤廃したドイツにおいて「親の収入に子どもの進学が依存するべきでない」と宣言されたように[vii]、教育を公的なものとすることの眼目は子どもの親からの自立と独立を促進することにあるはずである。日本の奨学金は親に従う子どもという構造を温存してしまっている。文科省は平成26年度以降に入学した高校生向けに給付型の就学支援金を新設し、これにより一定の所得以下の世帯は授業料無償とは別に返還不要の給付を受けることができるようになったが[viii]、これもまた対象が子どもであるとは言い難い。子ども本人を対象とした給付型奨学金でなければ、子どもが自らの意思を貫徹しやすくはならないだろう。奨学金の効果はたんに経済的な次元に留まるものではないのだ。個人の選択と決断を可能にする意味でも奨学金の充実が望まれる。このような日本に対しスウェーデンにおける教育政策はどのようになっているだろうか。

 

スウェーデンの教育政策

 スウェーデン学校教育法はその第1条第1項で「国および地方公共団体は6歳児学級、基礎学校、高等学校、ならびに、それらと同等レベルの学校形態、すなわち、知的障害児のための養護学校、特別学校、サーメ学校において児童・生徒に教育を提供する。」と規定し、教育を公共部門が担うことを明言している[6]。またそれぞれについて無償とすることを第4章第4条、第5章第21条、第6章第4条、第7章第4条第1項、そして第8章第4条で定めている。スウェーデンの青年の7割以上が教育は社会全体で負担すべきと回答する[ix]背景にはこの学校教育法があると考えられる。

 このようにスウェーデン高等教育は原則として無償である。またスウェーデンでは成人教育が盛んであり、就職してから高等教育を受ける者も多いのも特徴である。教育費がかからないことも要因のひとつだが、就学を支える奨学金や制度の存在も大きい。手始めに「奨学制度報告書」のなかから、スウェーデン高等教育奨学金に関する上山(2007)のレポートをもとに、その教育政策を見ていきたい[x]

 スウェーデンの大学は社会人学生の多さが際立っている。およそ男性の8人に1人、女性の4人に1人は子どもをもち、入学者の中央値は22.3歳となっている[xi]。また公的な奨学金が充実しており、三瓶(2004)によると高校生には20歳になる春学期まで年間9か月間贈与奨学金が与えられる。そのなかには学習手当のほかに一人暮らしや通学の費用分も含まれている25)。20歳以上には一般奨学金があり、給与型のグラントと貸与型のローンがある。援助は財産調査を要件としているが「これは本人の経済状況により判断され,家庭や両親の経済状況については考慮されない(p.126 強調引用者)」ものであり、「公的サービスの中でも,学生援助制度は社会的格差の緩和に役立っているとされている。(同)」援助に関して「一度に申請できる受給期間は,最高で 1 年(52 週)までとなっている。申請できるのはグラントのみ,あるいはグラントとローンの両方であり,ローンのみを申請することはできない。学生本人が受給する期間を決めて申請し,希望者はいつでも申請書を CSN [7]に送ることができる。(p.129)」

 すでに見たようにスウェーデン高等教育および奨学金は日本とはまったく異なる様相を呈している。大学は高校卒業後ただちに入学するものではなく、就職したのち自らの適性を考えて伸ばしたい能力があるときに大学のコースを選択して就学する。高等教育を受けることは明らかに本人の意思によるものであり、奨学金が個人の経済状況を考慮することからして本人以外の都合に左右される余地は日本よりずっと少ない。親元を離れて暮らすことが当然で、個人主義が確立したスウェーデンにあって親の希望する子どもの進路といったものはないと言っても過言ではないだろう。まして前項で見た無理をする家計の存在は考えられない。またスウェーデンにおける高等教育は労働と密接に関連しており、日本のようにモラトリアム期間としては位置づけられていない。モラトリアム期間とはすなわちその後の人生においてやり直しが利かないことを意味するのではないだろうか。すなわち単線型ライフコースにあっての準備期間と言える。しかしスウェーデンのように働くようになってからも、さらには生涯に亘って学ぶことができる環境であればライフコースの変更が容易であり、したがってモラトリアム期間は不要であろう。前掲の三瓶が言うように「教育が生涯いつでも、どこでも受けられること、そのための経済的条件も整っていることは、人生の選択が一回限りでないことを保障するものである。」

 以上を踏まえて、ここからは特に成人教育に重点を置いてスウェーデン高等教育を見ていく。スウェーデンリカレント教育と呼ばれる成人教育を通じてひろく国民に教育への道を提供している。伊藤(2014)によれば「リカレント教育の狙いは2 つで、ひとつは、労働市場における需給調整ができるように、人材の供給側である学校(教育)と、人材の需要側である職場(職業)との間の交替・循環を図ろうとした。もう一つは、高校を卒業したばかりの若者が自分の適性を見つけることなく、すぐに大学に進むことを抑え、そこで浮いた資金を、教育レベルが低い成人に対する教育に充てようとした」ことである25)。この教育の特色は中間(2006)が実際にスウェーデンで行ったインタビューから垣間見ることができる6)

 中間はその記述のなかで4人のスウェーデン人を取りあげ、人々の間に根づいた教育のあり方を探っている。一人目は高校卒業後の進路を決めあぐね、とりあえずの職場がやがて適職となり仕事を通じて自己実現を図っていた女性だが、彼女は新たな職の誘いを前にして学ぶことを選んだ。スウェーデンでは教育を受けるために就労を中断する際には所得が保障される仕組みになっており、また休職後の復帰は以前と同等の地位を保証する制度となっている。二人目はいったん就職したものの勤務内容への疑問から精神を病み、自らの進路に悩むなかで友人のアドバイスをもとに医学部への進学を決めた男性である。スウェーデンでは25歳以上で勤務年数が4年以上の者は大学入学に際してその経験が考慮される制度がある。専門のコース修了が医師となる要件であり、実務研修は必要だが日本のように国家試験はない。三人目は自分の考えもなく流されるままに進学し就職したが勤続十年を前に退職、のちに妊娠し二人目の子どもを保育所に預けるようになったのを機に学ぶ意欲をもち始めた女性である。スウェーデンは通常の教育機関以外に国民高等学校、学習サークル、地方自治体成人教育があり、彼女は学習サークルで学ぶほかの人々に触発されて学習への意欲を高めた。スウェーデンにおいて生涯教育としていたるところで教育を受けられるようになっており、その内容も文化やスポーツに触れるものから学校教育に近いものまで幅広い。最後の四人目は将来を見据える期間と積極的に働く期間を経て初めて高等教育の門を叩いた男性である。学生ローンには25歳以上で以前に就労経験のある者を対象とする特別補助ローンがある。これによって現在職に就いていない者でも経済的理由から学習を断念しなくても済むようになっている。学びなおしは実経験に基づいた学問の深い理解をもたらし、社会的にも有意義である。またこの男性は大学で学ぼうと思った理由に子どもとの時間も挙げている。仕事に追われる日々では必然的に減る時間も、大学で学ぶ日々においては十分に確保することができる。

 このようなスウェーデンの人々の体験から中間が感じ取った特徴は以下の通りである。

  • 年齢や家族の事情に制約されず、自らに正直に初志貫徹の生き方にチャレンジできる社会
  • 生き方の節目において、次の場面へのスプリングボード(跳躍台)となる学びの場
  • 学び、働き、楽しみ、これらをバランスよく自律的にコントロールするための学びの場
  • 学びたいとき、学びたいことを、学びたい場で学べることを可能にしている社会
  • 生涯を通じて、学び、働き、楽しむ場を往還しながら、自分の可能性を広げていく社会

 これに加えて中間は学ぼうとする一人ひとりが「教育」に全幅の信頼を置いていることを生涯学習社会の根本に見ている。第2節で扱った内閣府調査における「学校に通う意義」でスウェーデンの青年は「一般的・基礎的知識を身に付ける」に対し約9割が『意義がある[8]』と回答し、質問項目中最多であった[xii]。なお日本においては「友達との友情をはぐくむ」が最も多く『意義がある』という回答を集めており、知識や職能を得る場としての認識はスウェーデンよりも総じて低い。教育に対するスウェーデンと日本の認識の差が見て取れる。

 スウェーデンの教育政策をまとめると教育を公共が担うものであると法律で規定し、すべての人が教育を受けられるように支援制度の充実を図ってきた。日本において高等教育への進学が家計との関係に左右されていたのとは対照的に、個人が自らの意思に基づいて進学や就学が決められるよう制度設計がなされていた。それによって人々はときに働き、ときに学びながら人生を意欲的、主体的に生きていた。流されるままに生きていた人でも日常に浸透した学びの場を通じてその意欲を刺激され、高等教育を受けることを決心していた。また、経済的不安が教育への意欲を挫かないようになっていることは生活保障としての教育制度という姿をありありと伝えているように思われる。

 

第三節              「なにのゆえに」

 以上が日本とスウェーデンにおける生活保障、とくに教育政策に関するものである。端的にまとめてしまえば、日本の保障は“世帯”単位であるのに対しスウェーデンのそれは“個人”単位であった。日本の子どもにとって高校教育への進学は「自ラニ由ル」よりも「親ニ由ル」ところが非常に大きい。自分がどこに行くか(身体の扱い)、自分がどの大学の学生になるか(身分の扱い)といった問題は親の意向に依存せざるを得ない構造となっている。そうして大学に入った日本の子どもにとって就職がある意味親への報いとなっても不思議ではない。親に苦労をかけて大学へ行かせてもらったのだから、いい会社に入って孝行したいと願うのは自然であろう。だが、そうなってしまうとその後の人生は親への借りを返す人生になりかねない。「なにのゆえに」生きるかといえば、「親のゆえに」なのである。こうして日本の子どもは自分自身を自ら存在させるのではなく、あくまで自らを存在させてきた側から自身を存在させる。

 それは言うなれば「ひと」の子である。しかし「ひと」のあり方が揺らいできている。このままでいいのか、という意識が共有されるようになってきている。日本の青年が感じていることは「ひと」であり続けるわけにいかず、かといって自らを存在させる「なにのゆえに」を掴みきれないがための「不安」ではないだろうか。では、筆者である私含め青年である者にとって「なにのゆえに」はいかにして掴み取れるか。ここで重要なことは視点の転換である。子どもはたしかに親によって存在させられている。しかし、実際は親もまた子どもによって存在させられている。親が親となるのは子どもが存在したその瞬間からである。このことを敷衍すれば将来世代が既在世代を存在させるのである。

 こうしたことが明らかとなったいま、われわれに課せられているのは存在させた親へ存在を与え返すよりも、これから存在させられる将来世代へ明け渡すことであると私は述べたい。そして、それを可能にすることが持続可能な福祉世界を将来するのである。

 

[1] 最近になって、宮本(2013)は「人々の暮らしを持続可能とする仕組み」と生活保障を呼びなおしている21)           宮本, 太郎,本田, 由紀,佐藤, 博樹,宮本, みち子,埋橋, 孝文,諸富, 徹,駒村, 康平,重頭, ユカリ:生活保障の戦略 : 教育・雇用・社会保障をつなぐ 岩波書店 2013。

[2] 広井良典によれば、社会保障とはsocial securityの訳であるが、そのsecurityの語源はラテン語のse(withoutの意)にcūra(心配、憂慮の意)をつけたものであり、つまり心配ないという語義である。22)         広井, 良典:日本の社会保障 岩波書店 1999

[3] 図表で見る教育:OECDインディケータ2012「日本」http://www.oecd.org/edu/eag2012.htm

[4] 教育機関に対する公的支出のGDP比は、比較可能なデータのあるOECD加盟国のうち最も低く、2010年においてOECD平均が5.4%であるところ、日本は3.6%となっている。同2013

[5] 大学レベルまたは上級研究学位を持つ男性の92%が就業しているのに対し、同等の教育を修了した女性の就業は69%にとどまり、OECD平均の80%を大きく下回っている。同2014

[6] 23)         岡沢, 憲芙,宮本, 太郎:スウェーデンハンドブック 早稲田大学出版部 第2版 2004 p.187

なお、翻訳は二文字ら(2005)によるスウェーデン原語からのものを引用した24)      二文字, 理明,田辺, 昌吾:スウェーデンの「学校教育法」の翻訳と解題,発達人間学論叢,pp.99-142,2005.2005。

[7] スウェーデン学生支援局(The Swedish National Board of Student Aid 以下,CSN)

[8] 「意義があった/ある」と「どちらかといえば意義があった/ある」をまとめたもの

 

[i] 経済産業省産業構造審議会基本政策部会(第12回)資料5「経済社会の諸システムの変化・改革とその進捗のばらつき・不整合」平成18年2月9日 http://www.meti.go.jp/committee/materials/g60327bj.html

[ii] 東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策研究センター「高校生の進路追跡調査第1次報告書」(2007年9月)p.69

[iii] 東京大学「諸外国における奨学制度に関する調査研究及び奨学金事業の社会的効果に関する調査研究」報告書 平成19年3月 文部科学省『先導的大学改革推進委託事業調査研究報告書一覧』

[iv] 財政制度等審議会 財政投融資分科会「資料3-3 文部科学省説明資料 独立行政法人日本学生支援機構高等教育に対する公的支援の現況及び今後のあり方について)」平成22年11月12日

http://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_filp/proceedings/proceedings/zaitoa221112.htm

[v] 「奨学制度報告書」p.338-39

[vi] 前出「高校生の進路追跡調査第1次報告書」p.64

[vii] 本稿第一章第四節第一項を参照

[viii] 文部科学省「高校生への修学支援 高校生等奨学給付金」 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/mushouka/1344089.htm

[ix] 本稿第1部第1章第10項参照

[x] 「奨学制度金告書」第5章 http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/itaku/08090305/004.htm

[xi]奨学金制度報告書」pp.124-24

[xii] 前掲内閣府調査p.97

 

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