修論を「いきなり書く」はむつかしい

修論の書きはじめに

更新日:2017年4月6日
高階英樹(人文社会科学研究科公共研究専攻)

 「修士論文を書こう!」「書かねばなるまい!」と意気込んでも、いざ書くとなると、これがなかなかどうしてむつかしい。修士論文に「何を」、「なぜ」、「どのように」書くかということが分節化されていなければ、どこから筆をつけたらいいから分からず、書きあぐねてしまう。
 私が所属する研究科では、おおよそ8万字が修論の目安とされている。そしてこれは記憶違いでなければ“本文のみで”である。つまり、脚注や参考文献を除いたうえで8万字書く必要がある。単純計算で400字詰め原稿用紙200枚分だ。よほど準備しない限り、この枚数を一気呵成に書き上げるなどという離れ業はやってのけられない。
 書こう書こうと気持ちと焦りばかり先行しているうちに、無慈悲に時間は過ぎていく。それならば、書けるところから書いていこう。はじめから完成品のような整った文章など書けはしないのだ。まず、自分が何について書きたいかを文章化する。こうしておけば、書き進めていくうちに何がなんだか分からなくなってしまったときに、戻ってくることができる。
 以下の文章は修論の“はじめに”ではない。それは全部書き終わったあとに書いたほうがいいくらいだ。だから、これは「修士論文の書きはじめに」である。迷いやすい私のスタート地点。

「福祉」の意味

 「福祉」という言葉は何を意味しているだろうか。一般にこの言葉は、高齢化に伴う逼迫した介護需要の高まりによって介護福祉(士)や高齢者福祉と結びつけて捉えられているように思われる。しかし、この介護という言葉が人口に膾炙するようになったのは1990年代末の介護保険法をきっかけとしてのことであろう。つまり、「福祉」が介護と結び付けて考えられるのはごく最近の出来事なのである。それ以前に「福祉」という言葉は、研究において「福祉国家」という概念で捉えられきたと言っても誤りではあるまい。この「福祉国家」という言葉は、その研究対象がおおよそ第二次世界大戦後に集中していることから明らかなように、もっぱら1945年以降の国家体制のことを指している。

福祉国家」の意味

 では「福祉国家」という言葉は何を指しているだろうか。この特色を、第二次世界大戦までの社会保険と社会扶助とを架橋する失業保険の創設に見出す議論がある(田多, 2014)。また、大戦中にイギリスのチャーチル首相がドイツを「Warfare State(戦争国家)」と呼び、自国を「Welfare State(福祉国家)」と対比させたこと、そのイギリスで「ベヴァリッジ・プラン」が策定・実施されたことから、イギリスを「福祉国家」の祖とみなす議論もある。その傍証として、福祉国家の危機が喧伝された1980年代に日本で「イギリス病」と名指して、福祉国家を批判した議論がある((香山, 1978)、(自由民主党, 1979))。これに対して、社会的支出の少ない規模からしてイギリスを福祉国家の模範と見るのは誤りであるという指摘もある(新川, 2005)。

社会保障」の意味

 また、「福祉国家」が語られるときにはたいてい社会保障に言及されるが、「社会保障」が何を含意するかについても各国で違いがある(木村, 1992)。イギリスでの社会保障とは、端的に言って所得保障を指す。フランスでは社会保障が、社会扶助と区別されている。スウェーデンでは個別具体的な政策や制度ではなく、それらを包括する概念である。さらに、長らく独自の社会政策ないし社会政策学説を展開してきたドイツでは、英米でいうSocial Policyと自国のSozial Politikとを区別したり止揚させたりする論争が大戦後に巻き起こった。このように、「福祉」や「福祉国家」そして社会保障といった語は、それぞれ関連性をもちながら何を意味するかが時代や国によって一様でない。

比較福祉国家

 こうした状況の一方で、福祉国家比較は1960年代にウィレンスキーが社会的支出の多寡を基準として各国を比較したときからすでに半世紀の蓄積がある(Wilensky, 1975, Wilensky and 下平, 1984)。とりわけ1990年にイェスタ・エスピン・アナセンが福祉国家自由主義型、保守主義型、社会民主主義型とに区分する分析を公表すると、以後さまざまな批判がありながらもおおよそその枠組みを前提または参考にした議論が多くなされている(Esping-Andersen, 1990, Esping-Andersen et al., 2001)。ウィレンスキーの議論では各福祉国家はいずれ一様に収斂する見方が提出されたが、実際にはそうならず分岐していることを示したのがアナセンの類型論だった。この福祉国家の類型論はその後、福祉国家のレジーム論へと発展して今日に至る(新川, 2015, 新川, 2005)。

比較福祉国家研究の成果

 昨今の福祉国家研究は、1970年代に危機が叫ばれたにも関わらず各国の社会的支出は縮小されずに増加の一途を辿っていたことを示している(近藤, 2009)。むしろ福祉国家の変容は1990年代に端を発しており、財政問題に加えて移民や難民の排斥問題が増大する現在こそが福祉国家の危機であることを示している(近藤, 2009, 水島, 2012)。自国民の福祉を盾に、移民や難民に強硬な態度をとる、いわゆる福祉ショーヴィズムや福祉ポピュリズムがヨーロッパで高まっている(高橋 et al., 2016, 石田, 2015, 水島, 2016)。

日本の現状

 国内に目を向けると、日本では受入数が少ないため移民や難民こそ問題化していないが、福祉政策が社会の治安の維持や秩序の形成に用いられる傾向が強まっていると言える。神奈川県小田原市では、生活保護担当の職員が10年にわたって、受給者を威圧する文言が書かれたジャンパーを着てケースワークに従事していたことが発覚した*1。また、神奈川県相模原市で2016年7月に発生した障害者支援施設での殺傷事件を受けて出された精神保健福祉法の改正案には「治安維持を目的としている」という指摘がなされている*2。さらに、地方自治体によっては、不正受給の告発を促す取り組みを実施したり、生活保護受給者の行動を制限するような条例を可決したりするところも現れている*3

「福祉」の表と裏

 「福祉」を個人の幸福や人権の擁護と結びつけて捉えるならば、その実現を目指すはずの福祉国家において、社会保障がかえって国民の生活を制約したり、移民や難民を排斥したりしていることは本末転倒である。しかし、「福祉国家」の歴史、さらに「福祉」そのものの概念史を紐解けば、そうした理解が一面的なものに過ぎないことが明らかとなる。

日本へのドイツの影響

 日本の社会保障社会保険社会福祉の制度はその基盤の多くをヨーロッパの思想や制度に依拠している。明治時代から1930年代にかけては、ドイツから国家学や社会政策を精力的に取り入れていた(金子, 2010)。たとえば現在の民生委員の前身である方面委員の制度は、ドイツのエルバーフェルド制度を参考に作られた(今井, 2009)。
ドイツでの「福祉国家
 そのドイツではすでに19世紀に福祉国家と訳せる「Wohlfahrtsstaat」という概念が、否定的な意味で用いられていた。これは国民にとって何が善いかを決める後見的国家として批判された(木村, 1986, 木村, 1988)。この「Wohlfahrtsstaat」の思想的背景には、警察や行政を意味するPolizei思想と治安や秩序と関連しているGemeinwohl思想があった(ラッセム et al., 2012, モハメド et al., 2013, ラッセム et al., 2014)。ナチス時代に国家が国民生活へのあらゆる領域に介入するようになると、この「Wohlfahrtsstaat」概念は尚のこと忌避されるようになった。こうした歴史的経緯のもと、ドイツで第二次世界大戦後に作られた基本法には福祉国家ではなく「社会国家Sozialstaat」という言葉が盛り込まれてる(Kaufmann, 2002)。

福祉国家」の表と裏

 このドイツの歴史が示すように、福祉という語が掲げられていれば自動的にそれが国民の幸福をもたらすとは限らないばかりか、積極的に人権を侵害することさえ起きうるのである。「福祉国家」がかえって国民の生活を脅かす懸念は、現代の福祉国家にも当てはまる。懸念に留まるどころか、それはすでに現実のものとなってしまっている。かつて福祉国家の危機が叫ばれたときのように、福祉国家をただ擁護すればいい時代は過ぎ去っている。さまざまな意味をもつ「福祉国家」、ひいては「福祉」そのものを問いなおすことなしに、個人の幸福や人権擁護を保障することは今後ますます難しくなっていくに違いない。

参考文献

ESPING-ANDERSEN, G. 1990. The three worlds of welfare capitalism, Cambridge, Polity Pr.
ESPING-ANDERSEN, G., 岡沢, 憲. & 宮本, 太. 2001. 福祉資本主義の三つの世界 : 比較福祉国家の理論と動態, ミネルヴァ書房.
KAUFMANN, F.-X. 2002. Herausforderungen des Sozialstaates. Herausforderungen des Sozialstaates.
WILENSKY, H. L. 1975. The welfare state and equality : structural and ideological roots of public expenditures, University of California Press.
WILENSKY, H. L. & 下平, 好. 1984. 福祉国家と平等 : 公共支出の構造的・イデオロギー的起源, 木鐸社.
ハメド, ラ., 杉田, 孝. & 田崎, 聖. 2013. 福祉の概念史Ⅱ[翻訳]. 生活社会科学研究, 20, 55-69.
ラッセム, モ., 杉田, 孝. & 田崎, 聖. 2012. 翻訳 福祉の概念史(1). 生活社会科学研究, 59-73.
ラッセム, モ., 杉田, 孝. & 田崎, 聖. 2014. 翻訳 福祉の概念史(3). 生活社会科学研究, 63-80.
今井, 小. 2009. 方面委員制度とストラスブルク制度--なぜエルバーフェルトだったのか. Human Welfare : HW, 1, 5-18.
新川, 敏. 2005. 日本型福祉レジームの発展と変容, ミネルヴァ書房.
新川, 敏. 2015. 福祉レジーム = Welfare regimes, ミネルヴァ書房.
木村, 周. 1986. 法治国家と「公共の福祉」 : ドイツ法治国家思想の歴史的射程 (森清教授追悼号). 成城大學經濟研究, 135-178.
木村, 周. 1988. カントの旧福祉国家批判について. 成城大學經濟研究, 73-116.
木村, 周. 1992. ドイツ社会保障概念の形成と社会政策. 成城大學經濟研究, 61-118.
水島, 治. 2012. 反転する福祉国家 : オランダモデルの光と影, 岩波書店.
水島, 治. 2016. ポピュリズムとは何か : 民主主義の敵か、改革の希望か, 中央公論新社.
田多, 英. 2014. 世界はなぜ社会保障制度を創ったのか : 主要9カ国の比較研究, ミネルヴァ書房.
石田, 徹. 2015. 福祉をめぐる「再国民化」 : 欧州における新たな動向. 社会科学研究年報, 45, 187-194.
自由民主党 1979. 日本型福祉社会, 自由民主党広報委員会出版局.
近藤, 正. 2009. 現代ドイツ福祉国家の政治経済学, ミネルヴァ書房.
金子, 良. 2010. 日本における「社会政策」概念について : 社会政策研究と社会福祉研究との対話の試み. 社会政策, 2, 48-58.
香山, 健. 1978. 英国病の教訓, PHP研究所.
高橋, 進., 石田, 徹., 野田, 昌., 野田, 葉., 中谷, 毅., 坪郷, 實., 小堀, 眞., 畑山, 敏., 藤井, 篤., 馬場, 優. & 渡辺, 博. 2016. 「再国民化」に揺らぐヨーロッパ : 新たなナショナリズムの隆盛と移民排斥のゆくえ = Re-nationalization shakes Europe, 法律文化社.

*1:全国生活と健康を守る会連合連合会「市職員 服に脅し文句 利用者を威嚇・侮辱 生活保護 小田原でも人権侵害 生存権軽視許さない」『守る新聞』2017年2月12日号 http://www.zenseiren.net/osirase/news/2017/2344/2344.html (2017年4月6日閲覧)

*2:福祉新聞「<措置入院改革> 精神保健福祉法、治安優先の改正に反対」2017年4月4日 https://www.fukushishimbun.co.jp/topics/16209 (2017年4月6日閲覧)

*3:産経ニュース「別府市生活保護の実態調査強化 受給者の遊技施設出入りなど 大分」2016年1月23日 http://www.sankei.com/region/news/160123/rgn1601230037-n1.html (2017年4月6日閲覧)

12月に提出する修論のアウトライン(3月27日版)を掲載

 同様の関心やテーマで研究している院生が身近にいないので、研究内容を公開することで専攻が同じか近い人を探します。公表することに気後れはありますが、もとよりこのブログの趣旨は「頭の中の見取り図」なので、完成されているものより未完成なものを載せています。こうすることで、人が読むに堪えうるものになるよう鍛えていこうという心づもりです。人に読んでもらうことを内面化するには、まだあまりにも私は自分の頭の中にしまいこみすぎています。

最終更新日:2017年3月27日
提出締め切り:2017年12月25日
作成者:高階英樹(人文社会科学研究科公共研究専攻博士前期課程2年)

修論アウトライン

1. 研究の対象、手法

A. 書くこと

i. 問い
 福祉国家が国民の生活を保障する責任を負うべきことは確かだが、しかしだからといって何もかも国家が担うべきであることにはならない。むしろすべてを公的福祉に委ねることは、際限ない規律化を許すことになり、かえって危険である。「国家による平等」を求めれば、それだけ「国家からの自由」を手放すことになるのだ。では、国家から距離をとって、個人の幸福と人権の擁護を可能にするためには何が必要であるか。それは社会福祉であり、民間による福祉活動である。国家や地方自治体から独立して活動する団体や組織があってこそ、個人を焦点化することができるからだ。
ii. 答え
 「福祉国家」と「福祉社会」は、公共の福祉と人権との関係をめぐってつねに緊張関係にあるものの、それは両者が両立しえないことを意味するものではない。国民の生活保障と個人の人権擁護をともに実現するためには両者の併存が必要不可欠なのである。
iii. 論拠
 このことを、国家と社会との関係を常に問い続けてきたドイツの社会政策の歴史から明らかにする。同時に、日本がそのドイツから影響を受けながらも国家と社会との区別を曖昧なままにしてきたことを、日本の社会政策の歴史から明らかにする。国家と社会という、個人に不可避の影響を与える存在の把握なしに、個人の幸福や人権の擁護について問うことはできないからである。

B. 研究の対象

i. 福祉の概念史
ii. 社会政策史

C. 研究の手法

i. 史実に基づいて用語の意味を限定
ii. 政治経済学(権力資源動員論、非難回避の政治、階級交叉連合)
iii. 政策過程論(政策主体の意図と政策自体の効果)

D. 研究の目的

i. 社会保障社会保険社会福祉の峻別(リスク管理の点では共通)
ii. 福祉と社会福祉との峻別(公的福祉と私的福祉の整理)
iii. 公的福祉の正当性確立(再分配の正当化)

2. 福祉の概念史

A. ヨーロッパの福祉概念の歴史

3. ドイツ社会政策史

A. その福祉概念と結びついたドイツ社会政策の歴史
B. Gemeinwohl und Polizei

4. 日本社会政策史

A. そのドイツ社会政策から影響を受けた日本社会政策の歴史
B. 「社会政策」に関与した内務省官僚
C. 「社会政策」に影響を与えた国家学と有機体論

5. 秩序形成としての社会政策

A. 両社会政策から析出される秩序形成的側面

6. 福祉の思想と政策における自立と貧困

A. 福祉に関する思想に裏打ちされた政策主体の意図と目的

i. どの対象を、どういう経緯で、何を目的に選別したか

7. 福祉をめぐる国家―社会―個人の関係

A. 福祉国家と社会国家
B. 国家からの自由と国家による平等
C. 個人の幸福と人権擁護

「この物語はフィクションです」

「もし世界が一人の人間によって救われたなら、その世界にはその者しか必要でない」*1

 一匹狼や一人で何でもできることがもてはやされるのは、大事な自分という稀少性を高めてくれるように錯覚するからである。ああいったものはほとんどフィクションでしかあり得ない。自分が特別で唯一無二であるというのはその通りだが、それは誰しもそうであって、普遍的なことである。
 みんな違って、みんないいはゴールでなくスタートであり、何が異なるかが要である。違いを示すのにもっと簡単なのは周囲を否定することだ。自分が他者と違うことは、端的に事実としてそうであるから。とはいえ誰にも妥当することを根拠にしているだけだから、固有性はない。当たり前のことを言っているだけで、オリジナリティがないのだ。他者の否定は、自分への過信をそれだけ高める。

 一人で何でもできる、という発想こそが、いわゆる行きすぎた個人主義として相応しい。それは他者の捨象である。我欲に満ちている、と言ってもいい。もはや他者は欲求充足のための手段だと、意識せずともそうみなされている。利己主義とはそういうことだ。
 反対に、一人では何もできない、と決めつけるのがパターナリスティックである。このトリックは、決めつける側は自分が自足していると考えていることだ。それを判断できると思っている。ここでも他者は対等な立場にない。

 この一人で為し遂げることができる、というヒーロー願望は、その願望が打ち砕かれないためにも、あらゆる言い訳をして他者との対等な協働を拒む。いわく、自分ひとりでできるからと、自分でやったほうがうまくいくからと言って。そうすることで幻想を守るのである。この願望は、自分が特別であり、しかし他者もまた特別であると認めるのを避けて、自分がどういう違い=複数性を発揮できるかを示さないことで、守られ続ける。
 これは何もなさないことに行き着くので、いつまでたってもヒーローになることはない。功績のない者を誰も称賛しない。ヒーロー願望の悲劇的あるいは喜劇的矛盾は、その願望を続ける限りけっしてヒーローになれないことである。せいぜいヒールになるのが関の山で、たいてい無名で終わる。

 物語には主要人物がいるから、その働きだけがクローズアップされる。事務的なことは描かれない。手続きもスキップされる。そうすることで、独断専行のように表現され、その成果がヒーローに帰される。
 この独断専行を実際にやったら不興を買うことになるのは火を見るより明らかである。自分だけが特別で、他者は凡庸であると決めつける態度は、事実に反するばかりか、他者の感情を逆撫でする。そうしてかえって意見は取り入れられず、行為は顧みられない。ヒーローになりたい者は、この否定に、評価されないことに不満を募らせる。それが身から出た錆とも気づかずに。まして自らは妨害を受けていて、それをしてくる敵を排除せねばならないと被害妄想を膨らませる。現実は他者との関係から成り立っていると理解できないので、空想のなかで生きるほかない。
 正しさの基準が自分そのものであるから、正義の味方どころか正義そのものであるとさえ自負する。それに歯向かうものを徹底的に悪と糾弾する。おとぎ話としても出来が悪すぎるが、物語がそうであるように都合の悪い部分は切り捨てられるので本人にとって整合性は保たれている。

 このヒーロー願望が破られるのは、まさにコペルニクス的転回と言ってもよい。本人の経験や認識が裏切られて、真相を突きつけられるのだからこれほど適格な喩えもあるまい。曇りなき事実の晴れやかな美しさの前には降参するほかない。
 それがいかにして起こるか、その衝撃がいかほどであるかは見当がつかない。事実を認めようとしなかった不誠実さに己自身が気づくほかあるまい。もとより他者の言うことに聞く耳をもたないので、身を以て思い知ることのみが物語に終わりを告げる。”親切”にも「王様は裸だ」と言ってくれる人ははまずいないのだ。

 上記のことを書き留めていたら、これと近いことを書いている記事を読んだ。

blog.tinect.jp

 この記事を読んで脳内でひらめいたのは『シン・ゴジラ』における「現実」と「虚構」の関係である。この場合の「虚構」とは、単独であらゆることができるということである。しかし「現実」はそうでない。自分の思い通りになるよう望むなら、それはフィクションにおいてしかあり得ないのだ。

 上に紹介した記事では、いわゆる「コミュ力」に言及されている。そういえば、『シン・ゴジラ』で矢口はしばしばコミュニケーションに失敗している。赤坂に釘を刺され、どこへの指示なのか聞き返され、泉にたしなめられ、激励が空振りする。物語のヒーローよろしく矢口ひとりで「巨大不明生物」が退けられることはない。現実には周囲の反応や行動、組織の意思決定や手続きがあって物事は進む。「巨大不明生物」を止めたのは矢口の発案に端を発する作戦だが、日本への熱核攻撃を阻止したのは交渉(“コミュ力”)に長けた里見総理大臣。物事が成し遂げられるのは一人の人間によってではなく、いつも複数の人間による、という教訓にするまでもない現実である。
 「巨大不明生物」と矢口蘭堂は合わせ鏡だろう。一個体で進化しつづけ無性生殖さえ可能な「巨大不明生物」。それに対して、一個人でもっと出来ることがあると思うも空回りし「うぬぼれるな」と言われる矢口蘭堂。矢口には「巨大不明生物」へのある種の憧憬とも言える思いがあるように見える。こう言ってよければ、『シン・ゴジラ』はフィクショナルというよりヴァーチャルに近い。架空の物語なのでむろん現実ではないが、現実味が多分に持ち込まれている。それにつられて観客が現実を投影することができる。あれをアニメでやるなら相当難しいに違いない。

映画『シン・ゴジラ』公式サイト

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Weingut Dr.Schneider (ZunZingen)

ゲーテインスティテュートの企画で、バーデンのワインを6種類試飲してきた。Weingut Dr.Schneiderはフライブルクバーゼルの間くらいにある。試飲したのは白と赤を3種類ずつ。それぞれGutedel(シャスラ)、Weissburgunder、Graurburgunder、Spaetburgunder(und Barrique)、Cabernet Sauvignon & Merlotの計6種類。

Gutedelは青リンゴやレモングラスの香りが特徴的で、余韻に苦みが残る。Weissburgunderは青リンゴに加えてヘーゼルナッツの香りがする(ツナ缶っぽいとも思った)。より酸が強くて辛口に感じる。Graurburgunderはバナナやクリームの香りがして、味にも厚みが感じられる。ステンレスタンクでの醸造

Spaetburgunderは2013年がステンレスタンクで、2012年がバリックのもの。前者から赤いベリー系の香りがよく感じられた。ピノの特徴がよく出ている。後者からはコンポートしたベリーやバニラの香り。味もまろやかで果実味を豊かに感じる。Cabernet & Merlotはボルドーほどタンニンが強くないぶん、親しみやすい。好む人も多かった。カシスやブラックベリーに加えて、バニラや樽の香り。これらの赤ワインはすべてアルコール度数13%だが、同じようには感じなかった。

いくつか質問をした。まずGraurburgunderとRulaenderとの違いについて。日本語の記事で読んだ通り、Graurburgunderの方がより辛口に仕上がっているそうだ。おそらく国際的な評価を意識してのことだろうと思われる。それにRulaenderと名のついたものはあまり熟成に適さないのだろう。次にGraurburgunderに樽を使っているかについて。クリーミーな香りがしたから、もしかしてと思って訊ねたところ、そうではなかった。そういえば、ピノグリに特徴的な乾いた土っぽい香りは感じなかった。そして、なぜコルクを使わないかについて。Dr. Schneiderのワインは、スクリューキャップか専用のプラスチック栓だった。これはやはりコルクによる影響を避けたいためだそうだ。できればGutedelとシャスラの味の違いについても訊きたかったが、ドイツ語での言い方が分からずに訊ねじまいとなった。

最後に、試飲に使われたWeingutオリジナルのグラスに描かれた絵について。角が生えたような蛙はここのシンボルのようだ。なかなかいい感じだったので試飲グラスを購入した。そしたらおまけに、試飲で使ったCabernet & Merlotをくれた!ありがたい。
ドイツ語それ自体は分からずとも、自分が知っている内容なら理解できる。芸が身を助けるなら、ワインは懐を助ける。ドイツ語のワイン本を買ったので、これでワイン用語のドイツ語版を覚えて生産者に会いに行きたい。

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Weingut Dr.Schneider (ZunZingen)

ゲーテインスティテュートの企画で、バーデンのワインを6種類試飲してきた。Weingut Dr.Schneiderはフライブルクバーゼルの間くらいにある。試飲したのは白と赤を3種類ずつ。それぞれGutedel(シャスラ)、Weissburgunder、Graurburgunder、Spaetburgunder(und Barrique)、Cabernet Sauvignon & Merlotの計6種類。

Gutedelは青リンゴやレモングラスの香りが特徴的で、余韻に苦みが残る。Weissburgunderは青リンゴに加えてヘーゼルナッツの香りがする(ツナ缶っぽいとも思った)。より酸が強くて辛口に感じる。Graurburgunderはバナナやクリームの香りがして、味にも厚みが感じられる。ステンレスタンクでの醸造

Spaetburgunderは2013年がステンレスタンクで、2012年がバリックのもの。前者から赤いベリー系の香りがよく感じられた。ピノの特徴がよく出ている。後者からはコンポートしたベリーやバニラの香り。味もまろやかで果実味を豊かに感じる。Cabernet & Merlotはボルドーほどタンニンが強くないぶん、親しみやすい。好む人も多かった。カシスやブラックベリーに加えて、バニラや樽の香り。これらの赤ワインはすべてアルコール度数13%だが、同じようには感じなかった。

いくつか質問をした。まずGraurburgunderとRulaenderとの違いについて。日本語の記事で読んだ通り、Graurburgunderの方がより辛口に仕上がっているそうだ。おそらく国際的な評価を意識してのことだろうと思われる。それにRulaenderと名のついたものはあまり熟成に適さないのだろう。次にGraurburgunderに樽を使っているかについて。クリーミーな香りがしたから、もしかしてと思って訊ねたところ、そうではなかった。そういえば、ピノグリに特徴的な乾いた土っぽい香りは感じなかった。そして、なぜコルクを使わないかについて。Dr. Schneiderのワインは、スクリューキャップか専用のプラスチック栓だった。これはやはりコルクによる影響を避けたいためだそうだ。できればGutedelとシャスラの味の違いについても訊きたかったが、ドイツ語での言い方が分からずに訊ねじまいとなった。

最後に、試飲に使われたWeingutオリジナルのグラスに描かれた絵について。角が生えたような蛙はここのシンボルのようだ。なかなかいい感じだったので試飲グラスを購入した。そしたらおまけに、試飲で使ったCabernet & Merlotをくれた!ありがたい。
ドイツ語それ自体は分からずとも、自分が知っている内容なら理解できる。芸が身を助けるなら、ワインは懐を助ける。ドイツ語のワイン本を買ったので、これでワイン用語のドイツ語版を覚えて生産者に会いに行きたい。

「いつからシン・ゴジラの話と錯覚していた…?」

結論から言うと、もっかい観たい。

帰省して数日が経ち、持ってきていた本を読んでしまって手持ち無沙汰な昼過ぎ、映画を観に行ってきた。
ツイッターでちらほら面白い話が流れてくる「シン・ゴジラ」を。
俺がよく覚えているのは「ゴジラ対デストロイヤー」で、繰り返し見た。とはいえ、ゴジラにそう思い出が多いわけではない。
今回の動機としては時間あるし、いっちょ行ってくるか、本屋にも寄りたいからといったくらい。

シン・ゴジラ、面白かった。夏に映画館で観るのにピッタリ。手に汗握りながら観た。
感想として二つ。
観客は全体を見られるからまだ余裕があるけれど、実際の場面に居合わせたら自分は何をするだろうと考えた。
役割をこなす・責任を果たす・可能性を信じることに、自分は惹きつけられると改めて感じた。
自分が大学院生ということもあって、専門性の発揮と相乗効果に見入る。
この映画には、日本で暮らしていると感じる「あるある」ネタが随所に散りばめられていて、思わずニヤリとしたりクスリとしたりする。
ただ、よくよく考えると、それが「笑えない冗談」でもあることがすこし恐ろしい。
二度三度と観ることで、分かってくることもあるようだし、なによりまた観たいと素直に思ったから、また行こう。