星に願いを。

天上で双子座流星群の収穫が最盛期を迎えたらしい。今ごろ地上では双子の種が蒔かれていることだろう。願いはもちろん、健やかな子が生まれてきますようにだ。
流星が流れて消える間に願い事を三つ言えたら、その願いが叶うとは誰しも聞いたことがあるだろう。その本質は、あれだけ僅かな一瞬にその願い事を三つも繰り返せるほど熱心なら自ずと叶える行動に移るということにある。
流れ星に願うことは、終わりではなく始まりか決意の確認だ。願ったから叶うと考えて何もしない人には何も起きない。流れ星が何か叶えることは決してないのだから。

その昔、中学生になったかならないかくらいのころ、ハッピーターンの包装紙に「シャープペンシルに芯を6本入れて、それを誰にも触れさせずに使いきれたら願いが叶う」と書いてあった覚えがある。それを見てからというもの、私はシャープペンシルに芯を6本入れて、なるべく人に触らせないようにした。ひとに貸すときは別のものを渡した。
では私はその包装紙に書かれていたことを信じていたか?信じていなかった。それはつまり、6本もの芯を入れたシャープペンシルを誰にも触らせずに一心に書ききる気概があるなら、願いを叶えることもあるだろうと、そういう意味だろうと気がついていた。私には昔から物事を一足飛びに把握する癖がある。飛んでいるから足場がなくて、いつも宙ぶらりんになる。
6本の芯を入れたシャープペンシルを誰に触らせることなく使いきっても、べつに私の願いは叶わなかった。願いを叶えるのに繋がることを私は何もしていなかったから当然だ。流れ星と同じで、それ自体が願いを叶えることはない。

願い、たとえば将来の夢でいえば何も叶っていない。私は天文博士になっていないし、マクドナルドの店員になっていないし、最高裁判所の裁判官にも、「世界を守る王」にも、小説家にさえなっていないし、まして日銀や厚労相の職員にもなっていない。私は私が望んだと思っていたことを何も叶えていない。
どれもその通りにならなかったが、それでもそれなりにいいと思える人生を歩んでいる。かつて私が望んだことは、そのとき私に影響を与えたものを反映している。だからそれらは「私のたった一つの望み」というより、そのときの私が見ていた方向と言える。

いま「私のたった一つの望み A mon seul désir」は、この世界に対して誠実に開かれた存在であること。私が存在する前からも、存在した後にも、在り続けるこの世界のこの永続性を守ることが私の望み。私はこの私が存在した証を遺したいと、もうずっと願っている。そのためにはこの世界がなくてはならない、在り続けなければならい。
私はこの世界のありのままを受け止めたい。私が世界のありのままを受け止められているか気になって、胃腸がちくりちくりと痛むほどだ。思い過ごしをしているだけではないか、自分が何をしているかまるで分かっていないのではないか。
ねじ曲げてしまえば安らぎも得られるかもしれないが、そうした途端に世界から私は退場することになる。それはできない。
オルタナファクトやポストトュルースが跋扈する時代だからこそ、せめて私は事実を目の当たりにしたい。どれほど目を覆いたくなる悲惨なことでも、目を逸らして、なかったことにしてはならない。

この星に願いを。
☆……(願わくば、早起きしたいです)……彡