私には野望がある。

昔から、周囲に影響を与えたり、作用をもたらしたりすることが好きだった。
変えること、その発端に自分がいること、それに堪らない高揚を感じた。
同じもの(決まったスケジュール)には嫌悪を抱き、変わらないもの(慣習)には疑問を抱いた。
それはきっと小学校高学年のとき、自分が遊びの中心となって毎日取り仕切っていたことに関わるがある。
遊び方や遊ぶ内容を仕切り、友達の反応を得るなかで「変える」ことの面白さを体感していった。
思い返してみればそれ以来、将来の夢の内容はどれも何かを変えること(変化)を含んでいる。

中学後半から高校前半の夢は小説家になって読者に思いを訴えること。
高校後半の夢は経営コンサルタントになって仕事と職場を適性化すること。
浪人時代の夢は厚労省に勤めて社会保障を拡充するか、日銀に勤めて国家財政を改善すること。
大学時代の夢はワインを通じて生活に彩りをもたらすか、院に進んで社会保障の研究をすること。
現在の夢は、日本に福祉社会(Well-being Society)を実現すること。

私はいま、大学院の博士前期課程(つまり修士課程)1年生だ。
修士論文の構想は、福祉国家から福祉社会へと移行したデンマークの事例を参照し、それが何故どのように起きたかを記述、考察すること。
そして、日本において福祉社会を実現するために必要な条件を明らかにすること。

福祉国家は第二次大戦後に先進国で形成された。
私の直観だが、福祉国家福祉 well-being について国家が(それは官僚であり政治家である)考え、施すあり方だった。
それに対して福祉社会は同じことを考えるにしても社会が、つまり一人ひとりが考えるあり方ではないか。
福祉社会、それは一人ひとりが福祉 well-being について考える社会。

福祉 well-being とは何か。単に存在しているだけでなく、“よりよく存在している(良好な状態)”とはどういうことなのか。
ただある being だけでは不十分なのか。何故、well-beingについて考えなければならないのか。
どうすれば良好な状態といえるものを実現できるのか。
福祉 well-being が毀損されているとき、あるいは福祉 well-being を実現することが阻害されているときに何をすべきなのか。

そういったことを一部の人だけが考えるのではなく、すべての人が考える社会の実現を目指す。
一人ひとりが自分自身にとってのよいあり方、社会や国家のよいあり方、ひいては世界のよいあり方を考えられるように。

大学院を終了したあとのことはよく訊かれる。
私はてらいもなく、「教授」と答える。
それは字面の通り、教え授けるために。
何を?
一人ひとりがwell-beingを考える機会を。

私が大学院在学中はもちろんこと、これからするであろう全てのことはそこに収束する。
修論を書くことも、博士を目指すことも、大学の内外で活動することも、こうして文章を書くことも。

I have an ambition.
私には野心がある。
全ての人が自分自身の人生を生きられるようになること。
一人ひとりがよいあり方を考えられるようになること。
そのためには私はいま、ここにいる。



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