だから私は問うことを止められない〈断片〉

「一般的とされていることの全てに疑問を抱かずにはいられない」
私のことをそう評した友人がいた。言い得て妙である。
言うなれば、私は問いそのものである。なぜ?と問う場において、他者は私に出会う。
「なぜ私は問いを発せずにはいられないか」という問いには十分に答えることができない。
問いを発すること、それが私の私たる所以であり、私の原理だからそれ以上に遡って問うことは不可能だ。

問いを発すること、言い換えると疑問を抱くことはなにも否定することを意味してはいない。
一般的とされていることが“なぜ”一般的であるかについて、考えずにはいられないだけである。
あることが一般的とされるまでに至った経緯を、仕組みを探らずにはいられない。
もし一般的とされていたことと現実に乖離が生じたならば、それはどちらが正しいとか間違っているという話ではない。
私はよく「前提が変わらなければ結果は変わらない」と口にする。
違う結果が提示されたならば、それは違う前提が組み込まれたこと、あるいは前提が妥当しなくなったことを意味する。
一般的なことが正しいとされるのは、それが大多数の事実と照合するからで、それ自体が正しい訳ではない。
その正しさは適合する事実の多さに担保されているのである。一般的とされてきたことが正しいか間違っているかは事実の多寡によって定まる。

なぜ?と問うことには価値判断と事実確認とがある。
前者は“あってはならないはずのこと”に対する問いである。
後者は“あるがままのこと”に対する問いである。
私は、あってはならないはずなのに!で問うことを止めるのではなく、まずあることを認めて問い続けることをしたい。

人生はそれを生きる当人のものである。これは真理、つまり特別なことではなく、普遍的なことである。
私は、すべての人が自分自身の人生を生きられるようになるために、研究している。
誰も他の人の人生を生きられない。他の誰かとして生きようとしたり生かされたりすることは真理に背いている。
人が自分自身の人生を生きることは夢物語でもなければ理想でもない。
事実や現実がどれほどのものであっても、その人の人生はその人が生きるものである。
自分の人生であるのに、それを自身で生きることができない人がいる現実への疑問が私を研究に駆り立てている。
“あるはずのないこと”がなぜあるかについて明らかにするためには、まず“あるがままのこと”を詳らかにしなければならない。
真実に反していることを丹念に解き明かして暴き、真理に被さってそれを隠している覆いを取り払う必要がある。

私が問いかける対象は二つある。一つは人間、もう一つは世界に対してである。
人間に対した私が求めているのは答えAnswerよりも応えResponseである。私の問いかけを受けた他者の応答である。
世界に対した私が求めているのは原理Principleであり、真理Truthである。

人間は世界に投げ入れられている。投げ入れられた世界の性質に、人間は条件づけられている。
ある人間について知ることは、その人間を条件づけている世界について知ることにもなる。
ある人間について私が知られるのは、その人間がもたらしてくれた応答と、垣間見せた世界の片鱗からだけである。
世界という共通項が、ある人間の理解を可能にしていると同時に、その人間という独自性が理解を不可能にしてもいる。
共感とは、ある人間の置かれている世界の性質を共に感じることである。
人間は世界という共通項にあって、他の誰でもない始まりをもって誕生する。
本来、人間の誕生はつねに新生である。これまでの世界になかったことがもたらされ、新たな人間、つまり他者が生まれる。
もし何も新しいことが始められないのであれば、そこには世界という共通項のもとで均された〈ヒト〉という種しかいない。
〈ヒト〉は世界の機序のひとつであり、実際においては世間の写し鏡である。
新しく語ること、生きた言葉を話さずに、死んだ言葉だけなぞる者は文字通り終わっているのである。
人間が口にすることは書かれた段階で終わっている。それをいくら覚えようと、自ら新しく語るのでなければ何も始まりはしない。
問いに応えよ。そのとき応えるのがあなただ。
死者はもはや語ることはなく、語られるのみである。
死んだ言葉だけなぞる者はその言葉によって語られているのみで、自らは何も語っていない。
オーディオブックに人格を見いだす人は誰もいないだろう。