子どもにサンタはいるのかと訊かれたらどう答えようと考えるだけの人生だった。

じんぐっべー!じんぐっべー!スズムラ・ケン♪(イチ!)
全国に数いる鈴村健一のなかでも私が思い浮かべるのはこの人。
Kenichi Suzumura - INTENTION

騙されたと思ってジングルベルに合わせて上記を口ずさんでみてください。
頭から離れなくなります。

※本文に鈴村健一は関係ありません。

ジングルベルの曲を耳にするとふと、子どもにサンタはいるのかと訊かれたどう答えようと考えます。
私なら子どもがそのように言うことで何を知りたいかについて、考えをめぐらします。
サンタがいることに何か期待しているのか。たとえば、おもちゃがもらえる。
小さいころ私もそうでした。普段は買ってもらえないおもちゃが、サンタにお願いすると25日の朝にある…。
その夢はある年の朝、起きたら枕元に学習教材が置かれていたことで打ち砕かれました。
ああ、願いは叶わないんだ。サンタはいないんだって。

サンタにおもちゃがもらえると考えている場合、前提として親にあまりおもちゃを買ってもらえないことがあるでしょう。
ではどうして親は子どもの欲しがるおもちゃをそうそう与えないのか。おじいちゃんやおばあちゃんはどうしてああも買い与えてしまうのか。
親が買ってあげないものをなぜサンタは子どもに届けるのか。
謎は尽きません。

私はすでに過去の経験からサンタの存在を信じていません。
親にねだっても買ってもらえなかったおもちゃを買ってくれるサンタはいませんでした。
べつに親自身も信じていたわけではないでしょう。本気で信じていたならサンタの代わりに準備をするなんてことはしないはずです。
実は、私が先の子どもの質問(あるいは難問)にどう答えるかという手がかりがここにあります。
それはアンサーというよりもレスポンスです。「正解」は私も知らないのですから。

子どもはサンタを信じていた。
親はサンタを信じていないのに、あたかもサンタがいるかのように振る舞った。
子どもはサンタの存在を実感した。

サンタを信じるか信じないか、それ自体を比べてどちらが正しいとは言えません。
信じていない方が賢いわけでも、信じている方が馬鹿なわけでもないでしょう。

子どもが信じているサンタが、私の信じていないサンタであるとは限りません。
自分が信じていないその一点をもって、子どもが信じるサンタを否定することはできないのです。
もしそれを否定するなら、子どもが信じているその一点をもって、サンタがいることを肯定しなければなりません。
乏しい根拠でAを主張するなら、乏しい根拠でもAでないとする主張を認めなければアンフェアです。
自分の一体験で子どもの信じていることを全否定することをしてはなりません。

相手の言っていることに、つじつまの合わない部分はないか。
否定することがあるとしたら、その話のなかで整合性がとれていない部分です。
それだって相手の話にまずは耳を傾けて、吟味してから。
これは、いたずらに否定することだけでなく全肯定する危うさに対しても同じです。

私が贈るプレゼントは、子ども自身が自分の考えや思いに気づけるようになること。
その時が巡ってきたとき、このことをできるようになればなと思います。

なんだかんだ言いつつも、きっと私も子どもの枕元にプレゼントを置くのでしょうけど。