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速ければそれでいいのか?

 現代は時間が加速度的に速くなっていると言える。それは自動車や電車に飛行機の登場、情報通信の発達によってかつては考えられなかったほどの速さで日々を過ごすことである。これらを可能にしてきた「もっと速く」という目標は実は“未来をいますぐここに”という欲望である。歩いて一時間先の未来が自動車であれば十分後にやってくる。われわれはそうして未来へ前のめっている。速さとは限られた時間のうちにどれだけのことを詰め込めるかとして捉えられる。それは算数で速さを求めるときに道のりを時間で割ることからも明らかである。ある時間に含まれる道のりの長さが増せば増すほど、それが“速い”ということになる。

 たしかに寿命のあるわれわれにとって時間は限られているから、その間に“すこしでも先の未来(道のり)”を意欲すること自体は不当ではない。もっと速くして、もっとたくさんのことを有限の人生に詰め込みたい――しかしこれが度を過ぎると、時間制限のある食べ放題で“元を取る”ために満腹で苦しくなっても食べたがることと本質的に変わらないのではないだろうか。

 目まぐるしく移り変わる社会のなかで生きること、いわば一瞬のなかにありったけの未来が詰まった人生は人々に“止まることは損”だという意識をもたせかねない。一日あれば海外へだって行ける、一時間あれば溜まった仕事が片付く、一分あれば何でもできる……こうしてできることが詰まった時間を手放すことの惜しさを、現代の“速さ”は人々に抱かせ、少しでも休んだら“元が取れない”と思わせる。いざ休むときにも休むのにかけた時間以上の休みを求める。つまり、“休むのに努めさえ”する。象徴的に言えば、われわれは時間制限のある“生き放題”で元を取るために生き急いで苦しくなっても生きたがっているのだ。食べ放題の例と同様に、それはもう生きることがそれとは別の目的の手段と化してしまっている。食べ過ぎの末路は嘔吐や体調不良であるが、生き急ぎ過ぎの末路は燃え尽きや不意の死である。

 時間がどうしようもなく過ぎてしまうから、われわれは一秒でも経過することに惜しさを感じ取ってしまう。だがそれは“思い詰めすぎ”である。たとえば目の前にある料理が食べてしまえばなくなるからといって、ではそれをもっと調達しようなどと思うだろうか。そのようなことはしないはずである。そのときにわれわれがすることといったら、その料理を大事に味わって食べることだろう。食べるとなくなってしまうが、それでも食べたい。食べるとなくなってしまう、だからこそ“時間をかけて”食べる。それが満足をもたらし、ときには贅沢を感じさせる。生きることにおいても同様である。何をしてもしなくても過ぎてしまうからできるだけのことができるよう速さを求めるのではなく、欲することに時間をかけて取り組むことが本来の豊かさであろう。時間が限られているからこそ、それをいかに切り詰めるかではなくて、どれだけかけられるかが本当の意味で時間を過ごすことなのだ。