死は当人のものではない。安楽死と尊厳死。
死が“終わり”とみなされるようになったのはいつからなのだろう。
思えば死はいつでも他者のものであった。自らが生きるなかで他者の死を目の当たりにする、あるいは耳にすることはあっても、自らの死を経験することはない。訃報はいつでも他者のもとへ届けられる。自分に死が訪れるとき、自分はもういない。自分の死の受け取り手は自分ではなく、他者である。私が死んでいると認める他者に、私の死は受け止められる。
私は生きていると言うように私は死んでいるとは言えない。それを発する私はもはやいないのだから。私は生まれてから私のすべてをこの身に享受してきたが、死だけは受け取ることができない。実のところ死が“終わり”であるのは私にとってではなく、私の死を受け止める他者にとってである。他者と私の相互性が終わるのだ。私が他者と新しく関わることはもはやない。まだ生きる他者が自らのうちで、かつて私と関わったことに関わるだけである。
私の死は私とともに生きた他者にとっての“終わり”なのである。私が死ぬというより、死ぬのは私といった方が正しい。他者はまだ生きる。
死が私の“終わり”でないことは以上から明らかである。そして死は無でもない。死は生の停止であるだけで、生そのものを根こそぎにすることはない。そもそも生あっての死である。その死がどうして生を無に帰すというのか。それは死後の救済という詐欺を信じ込ませるための方便にすぎない。私の死は私のものではないのだから、死後に私の救済などありうべくもないのだ。私の死後における他者の救済に限れば、まだあり得るにしても。死が無であるなどと嘯くことは他者の死を受け取り拒否した不届き物の証左に過ぎない。
先だってある大学で行われた哲学対話に参加したのだが、そのときのテーマが「尊厳死」だった。
しかし実際は他者が当人の死を決めること、つまりは(消極的)安楽死の是非についてだった。
その場合、まだ息はしている当人を自分が死なせてしまったのか、もっと言うと殺してしまったのかという疑念が首をもたげる。
テーマの提供者もそのことがもっとも気にかかっていたのだった。
死なせることと殺すことの差異はどこからくるのか。人の命を自分が決めていいものなのか。息があっても回復の見込みはなく、ただ時間の経過を待つしかないこととどう向き合うのか。
ここで死について分類をしておきたい。それは身体的、社会的、精神的の3つである。
通常われわれが思う死がここでの身体的死である。社会的死とはいわば社会の居場所がないこと、誰にも知られない状態である。そして精神的死は人であれば可能と思われることを為しえない状態である。
すでに見たように死は“終わり”なのではなくて、関係性の一端が切れることであった。いずれも、もはやその人と相互に関わることができないのを表す。
これを踏まえると消極的安楽死を考えざるを得ないときとは精神的死、すなわち意思の疎通がとれない場合であり、身体的死が刻一刻と差し迫る状況である。
ここで一番の問題となりえるのが社会的死である。というのも、当人の安楽死を決断するほどの関係性の近さがあるからである。
その人がいる限りは自分にとっての、その人にとっての関係がかろうじて生きている。その相互関係に“終わり”をもたらすことが消極的安楽死でもっとも深刻なのだ。
だが深刻であれど悲惨とは必ずしも言えない。
消極的安楽死においては当人の死を周りが受け止める準備ができる。繰り返しになるが、死は当人のものなのではない。まして他者のものでもない。他者が当人を死なせること、つまり当人に我が物顔で死をもたらすことは殺人であるが消極的安楽死はそうでない。
どこからともなく、しかし確実に当人にやってくる死をいかに受け止めるかを決めることが消極的安楽死なのである。唯一死なせるものがあるとしたら、それは社会的なもの、相手からの関係のみである。こと切れて垂れた糸を大事に手繰り寄せること、それが当人にとっての手向けともなる。
尊厳死は安楽死と打って変わって特別な様相を呈する。それは自らのでない死に対し、しかしそれが確かに来ることを前にして周囲への死の届き方を決める行為である。日常的にはわれわれが忘れている死の存在と正面から向き合うのみならず、それが届く先まで見据えたその覚悟に尊厳が宿るのだ。
けっして自らの死と思いなしてそれを装飾するものであってはならない。死を自らのものだと思い込んで、逃れられないのならいっそ飛び込むというのでもいけない。それは自殺と変わらない。
自殺は死を我が物顔で自らに振る舞うことである。われわれは誰も死を持ってなどいないのに。なお断りを入れておくが、これは自殺の批判であって自殺者への言及ではない。
尊厳死とはいっても死それ自体には低級も高級もありはしない。あるのはただ、いずれ来る死との向き合い方のみである。
“豊か”になってなんでも持てると思うようにさえなってきたわれわれは死すらそのように捉えるが、それは文字通り身を亡ぼすほどの誤りである。