私は誰に話しているか?

あるいは誰と話しているか?

西洋における対話は日本でよくあるような和やかなものではなく、緊張関係のもと行われる意見のぶつかり合いである。

というようなことが書かれていたのは、はて何の本だったろうか。

ああ、思い出しました。長谷川宏の『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)です。

 

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

 

 

 

本を読むことはすなわち自己否定である、と言ったのは予備校時代の現代文の講師でした。

知ろうとするたびに知らなかったことが白日の下に晒される、知っていたことがその内実を変容させる。そういうことをして自己否定と言ったのでしょう。

 

むむ?なぜ、このような話をしているのかと思いましたか?

私はときおり目の前に誰がいようとも、まるで自分しかいないかのように話してしまうことがあります。

そのとき私は誰に話しているのでしょう。あるいは誰と?

今回はそういったことから考えてみます。

 

私は起きている間中、自己内対話をしています。有り体に言えば考え事をしているのです。

ずーっと喋っています。私が、私に喋っている。いや、私が喋るのを、私が聞いている。そういった感じです。

そういうことの一端が漏れ出ているのが私のTwitter(@AlldependsonMe)です。

TwitterSNSということでコミュニケーションに用いるツールとして認識されている向きがありますけど、私自身は人と交流するよりも雑記帳として使っています。

初めから誰かとの交流より、好きな作家の呟きを見るためであったので今もなお、そういう情報を受け取るツールとして用いている意味合いの方が強いです。

コミュニケーションはFacebookの方で行っています。Facebookには文章を書くことはあっても文をぽんと置くことはありません。

対比的に言うならばTwitterは付箋であり、Facebookは便箋なのです。

そしてこのブログは録音機です。広告塔なので拡声器かな、とも思ったのですが、拡声器って案外何を話しているのかてんで不明瞭なときがありますね。それは困ります。

 

さて私はいま読者に語っています。明確に聞き手を意識しているのです。

ここに書かれている内容は自動再生メッセージのように、読む人が現れたときに語られます。(メッセージ、イッケン、ピーッ)

私は自分の話を聞くことがあまりにも自明になっているため、私の話を聞く他の誰かをしばしば失念します。

所属しているゼミではずいぶんそのことで同期に苦言を呈されたものです。

さすがにその症状を自覚し、名誉挽回とばかりに聞き手を意識して話をすることができたときも徐々に増えてきました。

私は思考が跳ぶので見切り発車で喋り始めるとまず脱線します。きちんと終点までの線路を敷設できなければ、あるいは少なくとも一進むごとに一マス増やせなければいけません。

当面は不用意に話し始めるのを自覚的に避け、一方で線路の敷設速度を上げていく必要があります。

そういえば私は昔、会話の行き違いや衝突などを「口通事故」と名付けたのを今になって思い出します。

 

また厄介なことに私は他の誰かの話を聞くことも時おりひどく下手なのです。

他の話をすべて自分に落とし込んでしまうため文脈がぶった切られますし、落とし込めないと話がまるで入ってきません。

とりわけこれは本を読んでいるときに顕著です。私は著者の話していることをおそらくそう真面目に聞いてはいないでしょう。

誰のかということはとりあえずまったく無視して、書かれていることのみを取沙汰すことがあるのです。自覚的にあるというより、そういう指摘を受けます。

譬えて言うなれば私はコース料理をその順番や意図を無視して、自分の食べたいものだけつまんで食べることがあるのです。

 

私はこの先大学院への進学を考えています。

それはいずれ研究職への道、自分のアタマの中身で以て飯を食べていくことを志すということです。

だのに現状、私は趣味として学問をやっているに過ぎない様を呈しています。

一人暮らしを通してそれなりに料理に腕前があがったからといって、では料理人になれるかというとかなり無理があるように、今の私にもかなりの無理があります。

なかなかこの事実に直面すると「お、おう…」と意気消沈しています。

今の今までいったい何をやってきたんだいあんちゃん?という声が聞こえます。こだまでしょうか、いいえ私です(´ー`)

とはいえ、これは生来の気質などという大それた話ではなく、単なる慣れとそれ故の不慣れの話なのでしょう。

私が話すのを自分で聞くことばかりに慣れてしまった私は、これから人に話すこと・人とそうすることに慣れていかなければならないのです。

 

私は往々にして誰と対話することもなく専ら自ら一人二役で対話し、自己否定にも向き合うこともなくただ本の内容を虫食いしていくばかりだったのです。

このブログで読者話し、本を通して著者対話することがこれからの課題です。