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修論を「いきなり書く」はむつかしい

修論の書きはじめに

更新日:2017年4月6日
高階英樹(人文社会科学研究科公共研究専攻)

 「修士論文を書こう!」「書かねばなるまい!」と意気込んでも、いざ書くとなると、これがなかなかどうしてむつかしい。修士論文に「何を」、「なぜ」、「どのように」書くかということが分節化されていなければ、どこから筆をつけたらいいから分からず、書きあぐねてしまう。
 私が所属する研究科では、おおよそ8万字が修論の目安とされている。そしてこれは記憶違いでなければ“本文のみで”である。つまり、脚注や参考文献を除いたうえで8万字書く必要がある。単純計算で400字詰め原稿用紙200枚分だ。よほど準備しない限り、この枚数を一気呵成に書き上げるなどという離れ業はやってのけられない。
 書こう書こうと気持ちと焦りばかり先行しているうちに、無慈悲に時間は過ぎていく。それならば、書けるところから書いていこう。はじめから完成品のような整った文章など書けはしないのだ。まず、自分が何について書きたいかを文章化する。こうしておけば、書き進めていくうちに何がなんだか分からなくなってしまったときに、戻ってくることができる。
 以下の文章は修論の“はじめに”ではない。それは全部書き終わったあとに書いたほうがいいくらいだ。だから、これは「修士論文の書きはじめに」である。迷いやすい私のスタート地点。

「福祉」の意味

 「福祉」という言葉は何を意味しているだろうか。一般にこの言葉は、高齢化に伴う逼迫した介護需要の高まりによって介護福祉(士)や高齢者福祉と結びつけて捉えられているように思われる。しかし、この介護という言葉が人口に膾炙するようになったのは1990年代末の介護保険法をきっかけとしてのことであろう。つまり、「福祉」が介護と結び付けて考えられるのはごく最近の出来事なのである。それ以前に「福祉」という言葉は、研究において「福祉国家」という概念で捉えられきたと言っても誤りではあるまい。この「福祉国家」という言葉は、その研究対象がおおよそ第二次世界大戦後に集中していることから明らかなように、もっぱら1945年以降の国家体制のことを指している。

福祉国家」の意味

 では「福祉国家」という言葉は何を指しているだろうか。この特色を、第二次世界大戦までの社会保険と社会扶助とを架橋する失業保険の創設に見出す議論がある(田多, 2014)。また、大戦中にイギリスのチャーチル首相がドイツを「Warfare State(戦争国家)」と呼び、自国を「Welfare State(福祉国家)」と対比させたこと、そのイギリスで「ベヴァリッジ・プラン」が策定・実施されたことから、イギリスを「福祉国家」の祖とみなす議論もある。その傍証として、福祉国家の危機が喧伝された1980年代に日本で「イギリス病」と名指して、福祉国家を批判した議論がある((香山, 1978)、(自由民主党, 1979))。これに対して、社会的支出の少ない規模からしてイギリスを福祉国家の模範と見るのは誤りであるという指摘もある(新川, 2005)。

社会保障」の意味

 また、「福祉国家」が語られるときにはたいてい社会保障に言及されるが、「社会保障」が何を含意するかについても各国で違いがある(木村, 1992)。イギリスでの社会保障とは、端的に言って所得保障を指す。フランスでは社会保障が、社会扶助と区別されている。スウェーデンでは個別具体的な政策や制度ではなく、それらを包括する概念である。さらに、長らく独自の社会政策ないし社会政策学説を展開してきたドイツでは、英米でいうSocial Policyと自国のSozial Politikとを区別したり止揚させたりする論争が大戦後に巻き起こった。このように、「福祉」や「福祉国家」そして社会保障といった語は、それぞれ関連性をもちながら何を意味するかが時代や国によって一様でない。

比較福祉国家

 こうした状況の一方で、福祉国家比較は1960年代にウィレンスキーが社会的支出の多寡を基準として各国を比較したときからすでに半世紀の蓄積がある(Wilensky, 1975, Wilensky and 下平, 1984)。とりわけ1990年にイェスタ・エスピン・アナセンが福祉国家自由主義型、保守主義型、社会民主主義型とに区分する分析を公表すると、以後さまざまな批判がありながらもおおよそその枠組みを前提または参考にした議論が多くなされている(Esping-Andersen, 1990, Esping-Andersen et al., 2001)。ウィレンスキーの議論では各福祉国家はいずれ一様に収斂する見方が提出されたが、実際にはそうならず分岐していることを示したのがアナセンの類型論だった。この福祉国家の類型論はその後、福祉国家のレジーム論へと発展して今日に至る(新川, 2015, 新川, 2005)。

比較福祉国家研究の成果

 昨今の福祉国家研究は、1970年代に危機が叫ばれたにも関わらず各国の社会的支出は縮小されずに増加の一途を辿っていたことを示している(近藤, 2009)。むしろ福祉国家の変容は1990年代に端を発しており、財政問題に加えて移民や難民の排斥問題が増大する現在こそが福祉国家の危機であることを示している(近藤, 2009, 水島, 2012)。自国民の福祉を盾に、移民や難民に強硬な態度をとる、いわゆる福祉ショーヴィズムや福祉ポピュリズムがヨーロッパで高まっている(高橋 et al., 2016, 石田, 2015, 水島, 2016)。

日本の現状

 国内に目を向けると、日本では受入数が少ないため移民や難民こそ問題化していないが、福祉政策が社会の治安の維持や秩序の形成に用いられる傾向が強まっていると言える。神奈川県小田原市では、生活保護担当の職員が10年にわたって、受給者を威圧する文言が書かれたジャンパーを着てケースワークに従事していたことが発覚した*1。また、神奈川県相模原市で2016年7月に発生した障害者支援施設での殺傷事件を受けて出された精神保健福祉法の改正案には「治安維持を目的としている」という指摘がなされている*2。さらに、地方自治体によっては、不正受給の告発を促す取り組みを実施したり、生活保護受給者の行動を制限するような条例を可決したりするところも現れている*3

「福祉」の表と裏

 「福祉」を個人の幸福や人権の擁護と結びつけて捉えるならば、その実現を目指すはずの福祉国家において、社会保障がかえって国民の生活を制約したり、移民や難民を排斥したりしていることは本末転倒である。しかし、「福祉国家」の歴史、さらに「福祉」そのものの概念史を紐解けば、そうした理解が一面的なものに過ぎないことが明らかとなる。

日本へのドイツの影響

 日本の社会保障社会保険社会福祉の制度はその基盤の多くをヨーロッパの思想や制度に依拠している。明治時代から1930年代にかけては、ドイツから国家学や社会政策を精力的に取り入れていた(金子, 2010)。たとえば現在の民生委員の前身である方面委員の制度は、ドイツのエルバーフェルド制度を参考に作られた(今井, 2009)。
ドイツでの「福祉国家
 そのドイツではすでに19世紀に福祉国家と訳せる「Wohlfahrtsstaat」という概念が、否定的な意味で用いられていた。これは国民にとって何が善いかを決める後見的国家として批判された(木村, 1986, 木村, 1988)。この「Wohlfahrtsstaat」の思想的背景には、警察や行政を意味するPolizei思想と治安や秩序と関連しているGemeinwohl思想があった(ラッセム et al., 2012, モハメド et al., 2013, ラッセム et al., 2014)。ナチス時代に国家が国民生活へのあらゆる領域に介入するようになると、この「Wohlfahrtsstaat」概念は尚のこと忌避されるようになった。こうした歴史的経緯のもと、ドイツで第二次世界大戦後に作られた基本法には福祉国家ではなく「社会国家Sozialstaat」という言葉が盛り込まれてる(Kaufmann, 2002)。

福祉国家」の表と裏

 このドイツの歴史が示すように、福祉という語が掲げられていれば自動的にそれが国民の幸福をもたらすとは限らないばかりか、積極的に人権を侵害することさえ起きうるのである。「福祉国家」がかえって国民の生活を脅かす懸念は、現代の福祉国家にも当てはまる。懸念に留まるどころか、それはすでに現実のものとなってしまっている。かつて福祉国家の危機が叫ばれたときのように、福祉国家をただ擁護すればいい時代は過ぎ去っている。さまざまな意味をもつ「福祉国家」、ひいては「福祉」そのものを問いなおすことなしに、個人の幸福や人権擁護を保障することは今後ますます難しくなっていくに違いない。

参考文献

ESPING-ANDERSEN, G. 1990. The three worlds of welfare capitalism, Cambridge, Polity Pr.
ESPING-ANDERSEN, G., 岡沢, 憲. & 宮本, 太. 2001. 福祉資本主義の三つの世界 : 比較福祉国家の理論と動態, ミネルヴァ書房.
KAUFMANN, F.-X. 2002. Herausforderungen des Sozialstaates. Herausforderungen des Sozialstaates.
WILENSKY, H. L. 1975. The welfare state and equality : structural and ideological roots of public expenditures, University of California Press.
WILENSKY, H. L. & 下平, 好. 1984. 福祉国家と平等 : 公共支出の構造的・イデオロギー的起源, 木鐸社.
ハメド, ラ., 杉田, 孝. & 田崎, 聖. 2013. 福祉の概念史Ⅱ[翻訳]. 生活社会科学研究, 20, 55-69.
ラッセム, モ., 杉田, 孝. & 田崎, 聖. 2012. 翻訳 福祉の概念史(1). 生活社会科学研究, 59-73.
ラッセム, モ., 杉田, 孝. & 田崎, 聖. 2014. 翻訳 福祉の概念史(3). 生活社会科学研究, 63-80.
今井, 小. 2009. 方面委員制度とストラスブルク制度--なぜエルバーフェルトだったのか. Human Welfare : HW, 1, 5-18.
新川, 敏. 2005. 日本型福祉レジームの発展と変容, ミネルヴァ書房.
新川, 敏. 2015. 福祉レジーム = Welfare regimes, ミネルヴァ書房.
木村, 周. 1986. 法治国家と「公共の福祉」 : ドイツ法治国家思想の歴史的射程 (森清教授追悼号). 成城大學經濟研究, 135-178.
木村, 周. 1988. カントの旧福祉国家批判について. 成城大學經濟研究, 73-116.
木村, 周. 1992. ドイツ社会保障概念の形成と社会政策. 成城大學經濟研究, 61-118.
水島, 治. 2012. 反転する福祉国家 : オランダモデルの光と影, 岩波書店.
水島, 治. 2016. ポピュリズムとは何か : 民主主義の敵か、改革の希望か, 中央公論新社.
田多, 英. 2014. 世界はなぜ社会保障制度を創ったのか : 主要9カ国の比較研究, ミネルヴァ書房.
石田, 徹. 2015. 福祉をめぐる「再国民化」 : 欧州における新たな動向. 社会科学研究年報, 45, 187-194.
自由民主党 1979. 日本型福祉社会, 自由民主党広報委員会出版局.
近藤, 正. 2009. 現代ドイツ福祉国家の政治経済学, ミネルヴァ書房.
金子, 良. 2010. 日本における「社会政策」概念について : 社会政策研究と社会福祉研究との対話の試み. 社会政策, 2, 48-58.
香山, 健. 1978. 英国病の教訓, PHP研究所.
高橋, 進., 石田, 徹., 野田, 昌., 野田, 葉., 中谷, 毅., 坪郷, 實., 小堀, 眞., 畑山, 敏., 藤井, 篤., 馬場, 優. & 渡辺, 博. 2016. 「再国民化」に揺らぐヨーロッパ : 新たなナショナリズムの隆盛と移民排斥のゆくえ = Re-nationalization shakes Europe, 法律文化社.

*1:全国生活と健康を守る会連合連合会「市職員 服に脅し文句 利用者を威嚇・侮辱 生活保護 小田原でも人権侵害 生存権軽視許さない」『守る新聞』2017年2月12日号 http://www.zenseiren.net/osirase/news/2017/2344/2344.html (2017年4月6日閲覧)

*2:福祉新聞「<措置入院改革> 精神保健福祉法、治安優先の改正に反対」2017年4月4日 https://www.fukushishimbun.co.jp/topics/16209 (2017年4月6日閲覧)

*3:産経ニュース「別府市生活保護の実態調査強化 受給者の遊技施設出入りなど 大分」2016年1月23日 http://www.sankei.com/region/news/160123/rgn1601230037-n1.html (2017年4月6日閲覧)