君たちは白いキャンバスではない。

ドッカー・ノ・エライー学長が入学式で読んだ式辞が話題を呼んでいる。
ドーコニ・モナイ大学の入学式ではつい先月まで高校生だった若者たちが大勢座っていた。
そこに現れたエライー学長は、決まりきった挨拶のあと、こう切り出した。

「君たちは白いキャンバスではない」と。

白いキャンバス――この喩えは、よく無限の可能性を表すものとして用いられる。
曰く、君たちは白いキャンバスでそこには無限の可能性があるのだ云々…といった具合に。
エライー学長の念頭にはそれがあったのだろう。
それまで式辞に興味を示していなかった新入生も、その言葉にハッと顔をあげる者がちらほらといた。

「君たちは覚えているだろうか。初めてクレヨンを手にしたときのことを」

そう続けてエライー学長が話したのは、誰しもあったであろう幼いときのことだった。

「私は初めてクレヨンを手にしたとき、非常にわくわくした。私には描きたいものがたくさんあった。
ほかの友人には何を描いたらいいか戸惑っている者もいた。そういった者は先生に手ほどきをうけて上手になっていった」

私事で恐縮だが、私は後者のくちだった。ただクレヨンを持っては、手についたその色をぼんやりと眺めていた。
おそらく新入生も学長の話を聞きながら自分の小さいころを思い返していただろう。

「私はたくさんのものを描いた。だが、しばしば私が何を描いたか人に伝わらないことがあった。
実際のものを描いたのに想像上の生き物だと勘違いされたり、その逆だったりしたこともあった。
端的に言って私は悔しかった。どうして、みんな分かってくれないんだろうと。そういうときはクレヨンを手にしたくなかった」

今でこそ表現の世界で高い評価を受けているエライー学長にも、かつてそのような時期があったのだ。
遠いところにいると思われた人物の意外な過去に新入生も親近感を抱いたのか、最初のころよりも顔をあげて耳を傾けている人が多い。

「あるとき私は友達と大喧嘩した。私が猫だと思って描いているものを、その友達はどうしても犬だと言い張る。
最期には取っ組み合いにまでなった。そして最後にその友達が言い放ったことを、私は今でも鮮明に覚えている。
その友達はこう言ったのだ。お前の絵は分かりにくいんだと。私はあまりに衝撃を受けて固まってしまった」

当時のことを直接見たわけではないわれわれには、幼いエライーが実際に何を描いていたかは知る由もない。
ただ、学長の口ぶりからたしかにそのとき幼いエライーがよほど落胆していたことがよく伝わってきた。
過去を振り返るかのように間を置いて発せられた口調はしかし、存外に明るいものだった。

「友達に分かりにくいと叩きつけられた私はしばらく落ち込んだのち、すぅっと冷静になった。
私ははっきりと分かった。なぜ私の描いたものがその通りに人に伝わらないのかを。
あのときまで私にはそれが人からどう見えるかという視点がなかった。私に見えるように人にも見えていると信じていたのだ」

この言葉を耳にしたとき、私は思わずうなってしまった。
これでも文筆を生業にしている者として思い当たるところがないわけがなかった。
私は学長の話を聞くうちにどこかで自分の身と重ね合わせるように聞いていた。
新入生のうちにも顔に手を当てて宙を仰いでいる者がいた。きっと、似たようなことを経験したのだ。

「私は初めてクレヨンを手にした昂揚感そのままに描き散らしていったが、それは私だけのものであった。
絵に描いたものはほかの人の目にも触れて、その人なりに受け止められるということに気がつかなかった。
あれ以来、私の絵は変わった。なにより私自身が変わったのだ。きっかけを与えてくれたその友達には会えなくなった今も感謝している。
私は、君たちが白いキャンバスではないと言った。君たちにはあの日クレヨンを握った胸の高鳴りや戸惑いを思い出してもらいながら、
これから描こうとしているものを考えてみてほしい。そこに他の人はいるのか。独りよがりになってはいけない。
何を描いたらいいか分からなくなったり、何も描きたくなくなったりしたときには、自分にはないクレヨンを持っている人に会ってみるのもいい。
そうしてたくさんの彩りに富んだ大学生活を送ることができるよう祈念して、入学の挨拶とさせていただきたく」

エライー学長がそう言って式辞を終えると、自然発生的な拍手が会場に満ち満ちた。
なかには感極まって目もとを指でぬぐう新入生もいた。
思わず椅子から立ち上がって拍手をしていた私も、着席してからしばしの間はぼうっとしていた。
白いキャンバスなどではなく、一人ひとり異なった色のついた人生があるということを、エライー学長は描いてみせたのだ。

記者[ジューニン・トイーロ]