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卒業論文第四章「人-生(にんせい)の本来性へ」

持続可能な福祉世界を将来する哲学的思索――「定常化」はわれわれを「本来性」へと連れ戻すか

第四章   人-生(にんせい)の本来性へ

その日からとまったままで動かない時計の針と悲しみと。――竹久夢二26)

第一節              根底的不平等と不自由に挑む福祉

 われわれは経済成長をひたすら追求してきた「ひと」であったが、第一章で触れたようにその意義が見直しを迫られている。かつての世界はもはや「ひと」のあり方を決めきれるものではなく、われわれは「なにのゆえに」自らを存在させるか選び決めなくてはならなくなっている。これまでの「ひと」のあり方に甘んじていては、われわれは存続不可能なのだ。ともするとひたすら経済成長への邁進は非本来的あり方においてのことでさえあったかもしれない。キルケゴールの次の指摘は示唆に富んでいる。

ところが、この形態の絶望(自分の自己を「他の人々」に騙り取らせる)には、世間の人は少しも気づいていないといっていいくらいである。そういう人間は、そのようにして自己自身を失ったからこそ、商取引をうまくやってのける達者さを、いや、世間で成功するだけの達者さを、かちえたのである。世間には、そういう人の自己やその無限化をはばんだり、困難にしたりするものはありはしない16)。(p.66)

 われわれはいつの間にか経済成長を国是とする世界に存在させられており、「なにのゆえに」それを目指すのかほとんど無自覚のまま過ごしてきた。その経済の発展は「ひと」による大量の生産と消費によって実現してきた面がある。というのも、「ひと」はその欲望の体系につねにすでに生まれた人々を組み込んでいったからである。そうして作る方も買う方も増えていったのだから自然に経済成長は達成される。その結果として環境問題を筆頭に様々な悪影響が生じたときになって、「ひと」がこれまでしてきたことに人々は直面するに至ったと言えよう。

 では、われわれが新たな存在理由を「自ラニ由ル」として、その場合の「自ラ」とはいかなる存在性格を有するのか。それは自分自身の固有性と人生の一回性であると私は考える。世界へ投げ入れられ、他の誰でもない“自ずから分かたれた”ものとしての自分は、「ひと」から規定されたあり方で存在しながらも、さしあたり自分の手もとにそれがあることから自分自身と思ってしまっている。これはハイデガーの言う「ひとである自己」に過ぎない[1]。本来的には、“自ら分かつ”こととしての自分が他でもない“じぶん自身”であると、「ひと」の側にある「なにのゆえに」とは別に自前で存在理由を区分しなければならない。すなわち、ただ自分“である”だけでは自分の人生は生きられず、自分“になる”ことで初めて自分の人生を本来の意味で生きられるようになるのだ。繰り返しになるが、前者において自分で“あらしめている”のは「ひと」である。こうして「固ヨリ有ル」ところの自分自身となるのを待って固有性は確立される。そして、あとにもさきにも二度と現れることのない自分自身が生きるということの一回性が前面に出てくる。そのとき、どこで生まれ生きるのかという問題が決定的となる。私たちの人生は一回きりだが、私たちは生まれる世界を選ぶことも決めることもできない。つまり、根底的に不平等であり不自由である。

 注意しておきたいことはどれほどわれわれが本来的になろうとしても、まずもってさしあたりは非本来的であるということである。われわれはつねにすでに世界へ投げ入れられてしまっているのだから。そして、投げ入れられる世界がいかなるところであるかは当然われわれに直接関与してくる。ここで、その根底的な不平等と不自由に挑むために要請されるのが福祉である。

 福祉はこれまで貧困への事後的救済や所得再分配による格差是正、そして20世紀後半における福祉国家といった文脈で主に論じられてきた。それは経済学や政治学、社会福祉の議論であり、福祉をめぐる思想の表明として政治哲学ないし公共哲学があった。こういったことはしかし、福祉の制度やその運用、理念や実践においてのみ語るばかりで、その原理をさほど追究してはこなかったと言える。たとえば盛山(2004)27)福祉と言えば平等が結びつく背景として「福祉の思想と平等主義との関係についてこれまで十分な議論がなされてこなかったこと」を指摘している(p.179)。

 しかしより根本的には、人のあり方そのものと結びつけて福祉を捉える視点の少なさが問題である。福祉は各国の歴史や時代背景に沿ってそれぞれのかたちで現れ、論じられてきたがために、それらを根底から基礎づける思索に乏しかったのではないだろうか。だが、ハイデガーにあやかって言えば「すべての福祉論は、どれほど豊かで確立されたカテゴリー体系を取りあつかうことができたとしても、まず福祉の意味を充分に明瞭にせず、その明瞭化をじぶんの基礎的課題として把握していないままであるなら、根底において方向を見失っており、じぶんに固有な意図を転倒したものでありつづけるのだ」[2]。一見して福祉を原理的に捉えるように思える政治(公共)哲学もその実、福祉を“いかに”位置づけるか、運用するかという議論に終始してしまっているように思われる。そこでは、そもそも福祉とは“何であるか”といった議論は少なくとも主題でない。

 すでに述べた通り、私の捉える福祉とは根底的不平等と不自由に挑むものであった。福祉として行われるいかなることも、その本質はわれわれがすでに存在してしまっていることから生じる状態の是正であり修正と言えよう。また、これから存在するであろう将来世代が投げ入れられる世界をよきものにすることでもある。そして、この将来世代への責任がわれわれにはいま課されている。彼らが投げ入れられる世界を貧相化させないこと、これもまた福祉に要請され、われわれが実行するべきことである。

 

第二節              将来世代への責任

 われわれの社会がこれから目指すべき「定常化」や、将来において必要となる「地球倫理」を説く広井だが、最近「生命化する世界」という新たな思想を打ち出している28)。そして私の見立てではこの「生命化する世界」は人間が将来世代と自然に対して責任をもつ世界である。

 その起源にあって自然から生まれた人類は周辺世界を開拓しつつも、あくまで自然の一部であった。このときはまだ地球規模の動的平衡に対する人類の影響は微々たるものに過ぎなかった。しかし神の概念を獲得し、神の似像として自然世界の支配を正当化した(西欧の)人間は[3]、自然を人間の側へと内部化していった。かつて自然と人類の外部に神があったのを、いまや自然を―徹底的に破壊しうるという可能性でもって―ほぼ手中に収めた人間は神に限りなく近づいたと言える。しかし神と異なり、もとは自然と共にあった人間は、それ故に一方で自然作品と化し、自らの手によって支配されようとしているのが現状であろう。

 別の論文で広井は、ヤスパースのいう枢軸時代ないし伊東俊太郎のいう精神革命が生じた背景に当時の環境破壊があるのではと考えているが29)、これは自然を支配すると同時に自然を支配した自らによって滅ぼされかねない事態を招いた――そして人類はその窮地を脱すべく知恵を絞った――と言えるのではないだろうか。つまり、生命の根本たる動的平衡のバランスが乱れ、過大な主体――神に近づく人類――による過剰な客体化――人類自らも含めた自然の支配――が進行するとき、生命は危機を迎える。ヨナスの言を借りれば「卓越した思考と、これが可能にする技術文明とによって、『人間』という一つの生物種が、自分自身を含めたあらゆる生物種を危機に陥れる能力を持ってしまった」(強調原文)のである。この事実を前にして、ヨナスは人類の将来世代への責任――人間が(人間として)存在すべし――を説く。だが、これは「人間中心主義的偏向」ではない。「実際には、人間の未来と自然の未来とは分離不可能」であり、「本当に人間的と言える観点では、自然は、人間の恣意的な力に対置される固有の尊厳を持ち続ける」とともに「自然から生み出されたものとしての人間は、他の類似の自然の創造物に対して誠意を持つ責任がある」のだ30)

 将来世代を滅ぼしかねない人類は裏を返せば、将来世代によって滅ぼされかねない。人類が滅ぶということは、その先の人類はもちろん、それまでの人類の存在が消滅することでもある。新たな知的生命体が人類の痕跡を発見するまで人類の存在は永遠に覆い隠されてしまう。これまで人類が存続してこられたのは、危機に瀕する都度「将来世代への責任」を自覚した人間が「定常化」でもって自然と人類の均衡の再調整を図ったためと考えられないだろうか。

 広井のいう“生命化する世界”は、人類が“おのずからそうであるもの”として自然に組み込まれていた時代に回帰する印象をもたせるが、しかし実際は人類が“みずからそうであるもの”として自然に自分自身を組み入れていく世界と言えよう。はじめ自然に住まい、やがて自然から離れて都市をなした人類は、今度は自らの足で自然へ帰るのである。そして技術と科学によって自然からの自立を果たした人類にいま要請されていることは自らへの自律である。自然に内包されながら自然を支配する自らを、将来世代への責任によって律する――それは神の戒律とも社会の規律とも異なる――ことが、“生命化する世界”において求められることである。そうして、われわれは持続可能な福祉社会(sustainable well-society)のみならず、持続可能な福祉世界(sustainable well-world)もまた将来する。そのときわれわれは二重の意味で本来的な存在となる。自らを存在させるとともに、自然をも含めた他者を存在させる存在になるのだ。

 

終わりに

 この卒業論文では力不足から当初目標としていたところの半分にも届かなかった。なによりハイデガーの哲学を咀嚼しきれず、ひどく雑多なまとめ方をしてしまった。この論文全体を通底するだけに、よりいっそうテクストと向き合わねばならない。またあわせて「定常化」や「地球倫理」を人間の本来性と重ねて考える試みも中途に留まっている。よって持続可能な福祉世界の具体的な中身と、「定常化」が人間を「本来性」へと連れ戻すという展開が明確にならないままとなっている。これをひとつの区切りとしても、決して終わりにはせず、改稿作業を続けたい。

 

[1] 日常的な現存在の自己は〈ひとである自己〉であり、これを私たちは本来的な自己から、つまり固有につかみとられた自己から区別する(『SZ』(¶360)[129])。

[2] 原書(『SZ』(¶30)[11])で「存在」となっている箇所を福祉に置き換えた。

[3] 安部浩によればピヒトは<責任概念が――就中「人間は神の似像なり」といった人間観を介して――「(最後の審判における)神に対する辯明」から「人間的主体の自己責任」へと変貌を遂げるに至るという、近世に起きたこの出来事こそが正しく、科学技術による自然支配を理論的に正当化し、その端緒を開いた>と主張した。安倍はこのテーゼを「責任から科学技術へ」と名付けている。安部浩「責任から科学技術へ」『Heidegger-Forum』 第七号2013,p.24

 

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