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卒業論文要約と「はじめに」

拙劣ながら卒業論文を公開します。全部で4万字を超えているので章ごとに分けて投稿します。社会保障をはじめとする福祉政策、あるいは福祉そのもの、ひいては人間のあり方に関心がある人にとって少しでも資するものがあれば幸いです。

持続可能な福祉世界を将来する哲学的思索――「定常化」はわれわれを「本来性」へと連れ戻すか

卒業論文第一章「不安の時代」 - ここに広告塔を建てよう

卒業論文第二章「所与として投げ入れられた世界」 - ここに広告塔を建てよう

卒業論文第三章「所有として引き受ける人生」 - ここに広告塔を建てよう

卒業論文第四章「人-生(にんせい)の本来性へ」 - ここに広告塔を建てよう

卒業論文参考文献 - ここに広告塔を建てよう

 要約

人類が地球規模の見直しに迫られるなかでこれからの世界はどのようにあるべきか。ひとつの世界像として、私はここに持続可能な福祉世界を提出したい。ではその世界とはいかなるものか。持続可能はともかく、なぜ“福祉”世界なのか。実は福祉こそ、もっとも人間的な営みであると私は考える。それは人間が生まれる世界についてまったく不平等かつ不自由であるのに対し、福祉は敢然と平等を徹底し自由を確保しようとするものだからである。それは人間が一度しかない自分の人生――にも関わらずその始まりを選ぶことも決めることもできないその人生――が脅かされるとき、必然的に要請されるものである。現代において人が人であることそれ自体が危機に瀕しているなか、福祉はその危機に抗する不可欠の拠り所なのだ。そして量的な成長の限界が意識され、貨幣的豊かさに依存しない質的な成長が意欲されるとき、改めてなぜ人は生きるかを問う問いが検討されねばならないだろう。すなわち人間の本来的なあり方とは何であるか。

はじめに

 これまでの思索の歩みを振り返ってみたい。それはそのまま、この論文で私が何を明らかにしたいかという動機になる。私が千葉大学に入学したころ、私は社会保障に強い関心があった。それも日本国債の累積債務を解消するための手段として社会保障を、しかもその拡充を考えていた。一般的に言えば社会保障の増大は国の財政を圧迫するものであり、財政健全化のためにその縮小が叫ばれる。じっさい、日本では少子高齢化にあって高齢者向けの社会保障費が増える一方で財源となる税収が確保できず、国債の発行に頼っている。つまり社会保障が累積債務を招いているという見方さえできる。

 しかし大学に入学する以前の私には「なぜ国債の発行がかさむのか」という疑問があった。社会保障費の問題はその根本原因には思われなかった。それはまた「なぜ社会保障費がかさむのか」という疑問を生むである。もっと別のところに解決の糸口があるのではないか。そう考えた私は「なぜ増え続ける社会保障費を毎年国債の発行で賄わなければならないほど経済が不活発なのか」という問いを立てた。社会保障費を捻出できるほどの税収が確保されれば、莫大な国債を毎年発行する必要もないだろう。

 では経済の不活発は何に起因するのか。そこで私は「不安」が経済を、ひいては人々を萎縮させているのではないかと考えた。人生において積極的に挑戦しようにもそれが失敗したさいの損失が大きい、また失敗の保障がなければ人々は消極的に安全策を採るしかなく、現在の日本経済はまさにその故に不活発なのではないかといった次第である。失敗したらどうしよう、失敗してはいけないと不安に駆られる状況下と、失敗してもやり直せる、失敗しても大丈夫だと安心できる状況下のどちらが人を積極的にさせるかは問うまでもない。前者はできること以外はなにもしない選択を採りがちで、後者はできるかもしれないとやってみる選択を採りやすい。このことを踏まえて、社会保障を充実させ、失敗しても大事に至らないと人々が思えるようになることが経済の活性化を促し、やがて税収の増加によって累積債務問題を解消する流れにつながるのではないかと私は考えたのである。

 このことに到ったとき私にはもうひとつの考えがあった。それは、その人が何をしたいかはその本人がもっともよく知るところであり、それを後押しする環境があることが望ましいというものである。言い換えると、このようであれと上からモデルを押しつけるのでなく、思うようにあれると下から支える基盤としての社会保障である。日本の社会保障は男性稼得主義であり、それはつまり男性は働いて女性が支え、両親が老いては扶養し子どもが生まれては養育するという単一のモデルに人々を回収する仕組みと言える。そこに共働きや専業主夫、両親や子どもを養えない人々の存在は周辺に位置づけられているに過ぎない。しかしいまや働く女性や家事をする男性は珍しくなく、安定した所得を得にくい非正規雇用の人々は増加している。かつての社会保障が前提としていたモデルが通用しなくなってきているのだ。こうなると社会保障に支えられるどころか、そこからこぼれてしまう人が出てきてしまう。現行の硬直した制度では、自分の人生を生きたい、自分が意欲することに挑戦したいと望む人々の後ろ盾になりえていないと私は見ている。

 このように考えた私の念頭には人生の一回性、その人の固有性があった。人は誰しも二度とない人生を生き、しかもそれは他の誰でもないその人だけのものである。そうであるからこそ人は自らの生を全うしたいと考えるはずであり、能うかぎり自分らしい人生を送りたいと願うはずである。そうでなければ、どうして自分が生まれたのか、生きてきたのかの意味がなくなってしまう。他の誰でも生きられた人生を生きるのがその人でなければならない理由などあるのだろうか。すくなくとも当人にはないだろう。それに自分が生まれ生きた意味を生むことは、自分とともに生きてきた他者のみならず、自分の死後も生きる他者のうちで意味が生きることにつながる。一度しかない人生でも、その人の固有性に基づいた証で以ってその人となりは語り受け継がれていくことができる。直接的には子孫や思い出として、間接的には伝承や知識遺産として人生の有限性を超えて遺り続けることで、後代になってもその存在を存在させられ得る。このことが分かっていれば、人は死を安らかに受け入れることができるのではないだろうか。死は自分の人生の歩みを止めるだけで、けっして無に帰すことはせず、死後の自分は他者のうちで記憶になるのだと。これは人がどうしようもなく受け止めざるを得ない人生の一回性をある種克服する。それも固有性に基づいて自らの人生を生きられてこそである。

 以上のこともあって私は現行の社会保障に不備を感じてきた。社会保障がこの人生の一回性とその人の固有性を見落としているからである。それはそのまま、社会保障から漏れる人びとの不安に直結していた。

 

 改めて考えてみると社会保障が範型としていた男性稼得モデルは確実な世代再生産をもたらす「理想」である。夫の稼ぎと妻の家事によって子どもは順調に大人になっていき、夫婦の親は孝行によって育ての労いを受ける。これが繰り返されることで自分が生まれ生きた意味は確かに子孫として遺る。一方で自分が死んでも子どもはいると思えることが人生の一回性を直視しないでも済むようにしてきたとも言える。戦後の日本において社会が豊かになるとともに社会保障が整備されたことで、死の問題が相対的に軽くなっていったのではなかろうか。だが、かつての「理想」はもはや人々の願うところではなくなった。言うなればこの「理想」は国家にとってのものであった。つねに人口が増加して税収も増えるという「理想」である。少子高齢化が税収の減少と社会保障費の増大をもたらしていることはすでに触れた。このような事態を予期していなかったがために国債に頼ることを強いられているのだ。国家と人々の「理想」が合致している間はよかったが、いつしか人々は別の理想を抱き始めた。それが、自分らしく生きたいという望みである。仔細に見るとこの望みはまずもって生きられることが前提となっている。生きられなければ自分も何もありはしない。とにかく生きるために必死だったころはそのこと自体が自分の生きている証だったが、生きていられることが当たり前となったときそれを自分で掴み取る必要が生じたのだ。日本が豊かになって一人ひとり十分に生きられるようになったうえで、人々は「自分らしさ」を求めるようになったと考えられる。自分はなぜ生まれてきたのか、何のために生きているのか、一度しかない人生を自分のために生きたい――こうなるとかつての「理想」はむしろ人々を縛るものとなる。国家の「理想」に同調する人からしてみればそれに背くことは例外や逸脱としてその目に映っただろう。社会保障もその大元となる社会もこの変化に対応しなかった。自分らしく生きることは矮小化されて文字通り“我が儘”であると見なされた。おそらく日本の社会は家族の成員とは別に存在する個人の生き方、対照的に言えば家族の“もとで”ではなく家族がいる“うえで”生きる個人の生き方を思い描けなかった。だとすれば個人は家族という共同体、ひいては社会という共同体から「離反」した者であって、その人々が“社会”保障に組み込まれなかったのも頷けよう。つまるところ日本の社会保障は社会“による”保障であって、社会“への”保障ではなかったと言える。社会から認められなかった人々の生き方を保障するものはないのである。

 私は人々の生き方を社会が決めるべきではないと考える。すくなくとも現代はかつての明治維新や戦後復興のような時代ではない。もしいま私たちが向かわねばならない方向がひとつあるとすれば、それは国家を超えた地球規模のものである。環境破壊や核兵器の存在を前にした、人類規模での「生きるか、死ぬか」という問題が私たちにふりかかっている。明治維新や戦後復興は日本国と日本人が存続するために政府が主導して果たされたが、人類の存続に関して主導する地球政府などありはしない。つまりこれまでの国家のような人の生き方をあらかじめ定める存在は、この方途において存在しないのだ。この時代状況からしても、私たちがどう生きるかを自ら選び決められるようにならなくてはならないことは論理必然であろう。それに私たちが人生の一回性を乗り越え、その固有性が語り受け継がれていくためには人類が存続していなければならない。もし人類が滅亡してしまうと、人の死を受けとる人はいなくなり、そのとき人の死は本当に“終わり”となり無となってしまう。

 話がずいぶんと大きくなってしまったが、私の念頭にあるのはこれからの時代は明らかにこれまでのやり方が妥当しないということである。日本国債の累積債務はその端的な一例と言えよう。日本のみならず地球上の国と社会が持続可能性に向けて変わっていかなければならなくなっている。その大転換のさなかで、人間が辿るべき道筋はいかなるものだろうか。私は「定常化」を通じて実現される「持続可能な福祉世界」を理想に掲げる。そしてそれはわれわれが見失った人間の本来的あり方をつかみなおすことをも、もたらすであろう。そのための思索を以下で展開したい。