“白ワイン”には魚が合うのか?

「言葉の適用条件を見極めねばならない」と、つねに思う。

それはいったい、何について、何に関して、何に対して言われたことなのか?

たとえば白ワインには魚、赤ワインには肉と一般に言われる。

でも実際には魚を生臭く感じさせる白ワインもあるし、肉に負ける赤ワインもある。

では、白には魚で肉には赤という常識は過誤(あやま)っているのだろうか?

たしかにそれは言い“過ぎ”という点で、誤っているのだ。

なぜ言い過ぎているといえば、白ワインとひとくちに言っても、じつにさまざまな種類があるという点を見“過ごして”、白ワインを総括しているからである。

白ワイン、と人々が口にするとき、そこには「フレッシュで、さわやかで、飲みやすい」という印象が念頭に置かれているだろう。白ワインは一般的にはその印象のうちに収まる。同様に赤ワイン、と人々が口にするときには「渋みがあって、重厚で、飲みごたえがある」という印象で語られている。

おおよそ、それは間違ってはいない。しかし、いつもその通りとは限らない。それに居合わせたとき、白と魚ないし赤と肉という組み合わせをお互いを台無しにさせる。文字通り、土台をチャラにするのだ。一般の印象外に、そのワインはある。

木の樽で醸造されて、熟成して、ボリュームのある白は刺身よりもクリームで煮た鳥や豚肉に合うことがある。渋みが少なくて、若くて、パリッとした赤はステーキよりも赤身の刺身に合うことがある。

そういったワインは白や赤といった区分には含まれるけれど、「白には魚で赤には肉」という言い方で前提されている白ワインや赤ワインではない。つまり前提から外れているのだ。そうなれば自ずと結果は違ったものとなる。

 

この話は数学にも通じるところがある。というか、数学における不等式が言わんとしていることは大略そういうことなのである。

x^2-5x+4<0 という式(前提)は

(x-1)(x-4)<0 という式(前提)に解釈でき

1<x<4 という範囲に解が収まる。

つまり、この式は1<x<4の間であれば、“どのような”数値でも成り立つ(ただしxは有理数)ということである。

先ほどのワインの話に照らせば、「フレッシュで、さわやかで、飲みやすい」という前提が与えられたとき、その範囲にある白ワイン“であれば”、魚に合うと言われる常識(=共通感覚)に合致する(つまりその範囲にある)のである。むろん、そこから外れるワインは一概に魚に合うとは言えないし、むしろ相反することすらある。すなわち前提が異なれば結果は当然異なる。

結果から前提が否定されるとき、それは前提が根こそぎ否定されるのではない。そこでは前提の前提が明らかになるのである。ワインにおいては、「白ならばフレッシュで~」という前提で、白を見なしていることが判明する。そうでない白が魚に合わないことはなんら不思議なことではない。

ちなみに先ほどの数式における「ただしxは有理数」というのも、この場合「ただし飲み物はワイン」という前提に同じである。「フレッシュで~」に当てはまるジュースが魚に合うかは言及されていない。

 

これまでの話をさらうと、「白ワインには魚で、赤ワインには肉」と言われる常識を例にして、そこで言われている白や赤がすでに何らかの前提のもとで言われていることが明らかになった。

そこではお酒について、料理に関して、お酒と料理の相性に対して白や赤といった言葉で言い表されているのである。

このように言葉はありとあらゆることを代表しているのではなく、つねにそうした前提のもとで限定されたことがらを言表している。

さて現代のように“複雑化した”社会と言われるとき、そこでは言葉を発するうえで前提とされていることがらが複雑多様化してきたということであり、一見理解が困難なようで、そのじつ言葉が何を前提に言われているか踏まえれば難解ではない。

そういった、言葉を丹念に丁寧に解(と)き解(ほぐ)すことがいま求められていると言っても過言ではなかろう。

白ワインには魚が合うのか?――それは、そこで言われている白ワインや魚が、はじめにそのことを言われたときの前提に合致していれば、正しいのである。白ワインが魚に合わなくなった、逆に魚が白ワインに合わなくなったということでは必ずしもない。

 

せんだって医療や看護の学生ないし従事者とともに話をするなかで「医療とは何か?」という話が出た。
医療とは人を助けるものだ――しかし、手術後すぐに患者は逝去した。
このとき、助けられなかった患者を前にして「人を助ける」医療はその根本を問われる。人を助けられなかった医療に何の意味がある?と。
手術を拒否し、迫る死をそのまま受け容れる人もあろう。そこで医療はその根底を揺さぶられる。助かるつもりのない人に、人を助ける医療は何ができる?
そこではおそらく看護こそが、その本領を発揮することになろう。では看護の本来的役割とは何か――。

さて、このように危機的な場面に直面した医療や看護は無力で無益なのだろうか。ともすると百害あって一利なしだろうか。それを考えるときには、「医療」や「看護」と口にするさい、それが何を言わんとしているのかを改めて問わねばならない。目の前にある状況と、手もとにある意義が合致していないのだから、それを接合させるためには無意識に前提となっていることを見直す作業が求められる。

そういったことを、私が大好きなワインを例に綴ってみた。私に「医療」や「看護」のことは分からない。しかし、それらが何をなそうとしているのかならまだ、思いなすことができる。
それは人を助けたいとは思わない私から、人を助けたいと思う彼らに送る、問いかけであり声かけである。
彼らにならできることがある。しかしそれは何だろう?人に関わる最前線で悩み考える彼らの傍らに、私のいることを許されるなら、私は私のできないことを成し遂げる彼らの力となろう。