その体脂肪率は誰のもの?
久しぶりに体重を量ったら50.9kgだった。
やせたというより、こけたと言われていたが、その裏づけが数字で現れた気がする。
4月に量ったときと同じ数字だけれど。きっと4月のころからもう、そうだったのだろう。
ついでに体脂肪率を量ったら10.1%で、ああさすがに一桁台にはならないかと思った。
自転車で毎日うんと長い距離を走っていたころであれば、夏はいつも一桁の体脂肪率だった。
よくある体重計に乗って量っただけだから、そう厳密なものではないだろう。
でも、そもそも厳密に量ることなんてできるのか。
ただ身長と性別、年齢との照合で、この体重であればこのくらいの体脂肪率であるという、データに基づいた傾向が示されたにすぎない。
つまり、あの体脂肪率は、ある意味「私の」体脂肪率じゃあない。
入力されたデータと、体重計に乗った物体の重さから導き出された数字で、今回たまたまその受け取り手が私であったというだけのことだ。
体重は私から、体重計を通して、私に返ってきたものだけれど、体脂肪率は、体重計から返ってきたものであって、私の持ち物ではない。
体重も体脂肪も、それ自体はたしかに私のものだが、あの体脂肪率を同じ意味で私のものだと言うことはできない。
相対的、というのはきっとこういうことなのだろう。
誰(何)かに対して示されはするが、もともとは誰(何)もそれを持っていない。
相ー対には、誰(何)から誰(何)へが必然的に含まれている。
相対主義と絶対主義の論争が古来からあるけれど、おそらく相対は絶対を下敷きに成り立っている。
「みんな違って、みんないい」が相対主義の最たる例だとしても、それを言うのは誰か。それを言っている人は内容を絶対とする。
相対主義は絶対主義をもとにして、ある。だからだめだというのではない。そういうものだ、ということ。
相対によってもたらされるものは、もとからあるものではないが、もともとあったものを基にしてそこにある。
今回の体脂肪にしたって、もとある体重と、もとあるデータを基にしてある。
10.1%という数字は半分は私のだが、もう半分は私のではない。
では誰のか?強いて言うなら、体重計の、といったところだろう。