日本では道路より目立ってはいけない

日欧の差異:「眼差し」と「公-共-私」 

道路を歩くとき、日本の人々は極力誰も見ようとしない、誰からも見られようとしない。

あたかもそこにいないかのように、黙々と過ぎる。

 

日本ではまるで道路こそが主体であり、そこを歩く人は道路を道路たらしめるだけの背景に過ぎないかのようだ。

誰も目立ちたがらない。自分に「眼差し」を向けてもらいたがらない。

人の目を引く恰好はもう、それだけで“奇異”なのである。

なにせ、目を向けない・向けられないことが当然のなかにあって、目を引くということはある種“異常”として注目を集める。

蛍光色の髪型、ゴシックな服装、度を超えた恰好など、これらはすべて異端とみなされる。

おいおい、あれ見たか?と人々に囁かせるのである。

まるで“道路よりも目立った”ことを咎めるかのように。

日本で人々は道路よりも目立ってはならない。あくまで背景の一部でなければならない。

 

道路という公の場で、人々はけっして“私”を出そうとしない。

あくまで誰でもない誰かとしてのみあり、特別なあるいは唯一の“私”として振る舞おうとはしない。

今も昔も、そしてこれからもそこにいなかったかのように通り過ぎるだけなのだ。

そこに“私”がいた、という痕跡をその場所に、居合わせた人の記憶にけして残さない。

公の場において人々は誰にも「眼差し」を向けず、誰からも「眼差し」を向けられないように努める。

 

共有の場で人々はいくらか“私”を出す。「眼差し」に耐えうる“私”を小出しにする。

見てほしいわけではないが、見ないでほしいわけでもない。

まるで密約を交わすかのように“私”を出した分だけ、相手からもそれを引き出そうとする。

そうして“お互いさま”をつくろうとする。“私”を出してしまった共犯であろうとする。

「眼差し」は意図的に対象を外して向けられる。見ないわけではない。目の端に置くに留める。それが“礼儀”だと言わんばかりに。

 

私有の場ともなれば、人々は猛烈に“私”をあふれさせる。

他の誰でもない“この私”を見てよ!と「眼差し」を独占しようとする。

誰もが「眼差し」を向けられたいと渇望しているせいで、誰も他の“私”には目もくれない。もしくはあなたに「眼差し」を与えてあげた分だけ、“この私”にもちょうだいという取引となる。

人々はあちこちに“私”の痕跡を残そうとする。

「眼差し」が“この私”に向けられることをなによりも求め、それに喜ぶ。

背景に退いたが最後、死んでしまうとでもいうように他を押しのけてでも前に出ようとする。

 

「眼差し」は「公-共-私」のいずれにおいても他者を直視しない。

誰にも向けず、誰からも向けられずにいる。

もし意図せずして「眼差し」を向けられたならば、人は気が動転する。

こんな“私”を見ないでと懇願する。

誰に「眼差し」を向けるか、あるいは向けられるか。

求めることはただ一つ、“誰にも…ない”である。

 

 

ひるがえって欧米では道路は背景以外の何ものでもなく、そこを歩く“私”こそが主体である。

誰もが、“この私”がいるのだということを誇示するために「眼差し」を求める。

「眼差し」を向けられること、それは名誉である。

それを知っているから“私”も「眼差し」を向ける。

見られていることを通して自らを見る。そこからまた他者を見る。

 

「眼差し」は「公-共-私」のいずれにおいても他者を直視し、自らを直視する。

どこで「眼差し」を向けるか、あるいは向けられるか。

 応えはただ一つ、“どこでも”である。

定まった中心で「眼差し」はすべての方向を向くと同時に、すべての方向から向けられている。