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梅雨だ!4年だ!卒論だあーっ!!

レジュメかな?┗(^o^;)┓レポートかな?┏(;^o^)┛こ…これは…(´・`;)卒論だああああああ┗(^o^)┛ドコドコwwwww┏(^o^)┓ドコドコwwwww 

次にお前は「思い出さすな」と言う。ハッ(´゚д゚`)

 

というわけで(?)、卒論はこんな感じで書こうかと。

 

なんで一人ひとり自分という意識=自我をもっているのか。

なんで人はことばを用いて意思疎通を図れるのか。

「自我」と「ことば」について

わたし、気になります

 

原理学の考え―すべての基礎としての自我とことば―:言語哲学と現象学的手法を用いて(仮題)

 

卒論を書くにあたって
はじめに「自我」と「ことば」――素朴な疑問からの深遠な問い
第一部「自我」
第一章「自我とは何か――静的視点から動的視点へ」
第二章「自我があるとは何か――自我・他我・非我」
第三章「自我と私――なぜ私が“私”なのか」
第二部「ことば」
第四章「ことばとは何か――記号・象徴・制作」
第五章「ことばがあるとは何か――伝達・模倣・創造」
第六章「ことばと世界――鮮明化と拡張」
おわりに「自我とことば――原理学の考え」

 

卒論を書くにあたって

 私はこれから哲学で卒論を書く*1法経学部総合政策学科であるにも関わらず。テーマを自由に選んでいいと仰ってくださった指導教官に感謝したい。今でこそこうだが、私が大学に入学したころの一番の関心は「いかに社会保障制度を改善して日本の国債を減らすか」というものだった。とりあえずは国債の残高がまずいことになっていると漠然と感じていた。そうして不活性となっているこの社会の現状を打破するために社会保障制度を改善することで、人々がリスクを過度に恐れず活動するようになり、ゆくゆくは経済も活発化するのではないかという考えでのことだった。何をするにもまず人あってのことだろうというのは、国家が人に投資することで少ない人口ながら特異な存在感を放っている福祉国家スウェーデンから私が感じ取ったことだった。

 いま思えば私はそのときからすでに、ものごとの根幹に眼差しが向いていたのかもしれない。国債が増え続けるのは何故か、社会保障給付費が増え続けるのは何故か、少子高齢化が進むのは何故かなど。ひとつ不思議に思えば芋づる式に「何故」が増えていった。なかでも私がもっとも不思議に思っていたことは少子高齢化がいわゆる先進諸国全般に見られることであった。国も民族も制度も歴史も異なるにも関わらず、同様の事態が起きていることは私にある疑問を抱かせた。それは「人には根本的な何かが備わっているのであり、それ故に同様の環境下において似た振る舞いをするのではないか」というものだった。そう思ったからこそ環境を整えることで人々の行動を変えられるかもしれないと考えたのだ。実際、スウェーデンは幾度の福祉改革を経て財政も福祉も日本より遥かに健全化していたし、国民も日本よりずっと“健やか”そうに思われた。

 ところでその「根本的な何か」とはいったい何であるか、ということが気になりだしたのが広井ゼミに入ってからのことだった。講義こそ社会保障論を担当されていた指導教官だが、専門といったら実は科学哲学という方でいらして、実に様々な知見を与えていただいた。そうしたなかで「根本的な何か」があるという私の思いはますます強まっていった。やがて私は「自我」に強く関心をもった。人はすべて“自分”という意識、つまり「自我」を多かれ少なかれもっていることから、それを探究することが「根本的な何か」へ至るのではないかと考えた。しかし「自我」とひとくちに言えど、自明すぎるあまり百家争鳴の状態で何がもっとも自分の関心と近いかすぐには判然としなかった。ずいぶんと道草をして気づいたころには哲学の領域に自然と足を踏み入れていた。

 学問としての哲学にはまったく疎かったため、「自我」について哲学者の考えを知ろうにも悪戦苦闘の連続であった。それに不満もあった。どうも「自我」の捉え方が狭すぎるのである。精神に局在させたり身体に局在させたり、他者との関わりがいっさい捨象されていたりと固定的なモデルが多いことは私を満足させなかった。たんに自我があるのでなく、「一人ひとりに自我がある」ということはどういうことなのかという視点が、すくなくとも私の目には抜け落ちているように思われた。

哲学書に親しんでいくうちにもう一つの探求心も生まれた。それは「ことば」についてである。「ことば」論はあれど、人が自我をもち、ことばを用いることをあわせて考えている者は少ないようであった。私はこの二つをともに考えていきたいと思った。それこそが「根本的な何か」を知るために一助になるのではないかと確信めいたものがあるからである。

 私はできることなら根本の解明に留まらず、そこから現代の複雑化したと言われる世情についても考察してみたいと考えている。しかし今はまだ到底その段階でない。まずははっきりと「自我」と「ことば」について自分の主張するところを明らかにしたい。この卒論はそのための第一歩である。

*1:哲学で論文を書くと言ったが、哲学は私にはずっと縁のないものだと思っていた。いわゆる哲学書を読んだことは高校時代に一度だけ、それもとあるゲームの副題として使われていたことから興味をもって読んだだけのことだった。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』だったが、まったく意味が分からず、あまつさえ脳が理解を拒否した。