批判は誰にでもできることなのか?
「批判なんてものは誰にでもできる」
「文句を言うだけなら簡単だ」
「自分でやってみてから言ってほしい」
「そこまで言うなら自分がやったらいい」
などなど…他人から反対や批判を浴びてこのようなことを言う人はままいるでしょう。
たとえば今度市長選に打って出て再選を狙う、とある市長さんなんかがよく言っている印象があります。
大きな立場に限った話ではありません。
日常のなかにおいても、耳にしがちな言葉たちです。
はっきり言うと私はこの言葉が嫌いです。
耳にするたびに何かこう、ざらっとしたものに引っかかったような、こすってしまったような感じがします。
その違和感を今回は記していきます。
「批判なんてものは誰にでもできる」
できません。批判は論理です。脊髄反射的な反応とは区別すべきです。
「文句を言うだけなら簡単だ」
批判を文句だと矮小化している逃げ口上です。
「自分でやってみてから言ってほしい」
相手がやり遂げた上で言ってきたら自分の非を認めるのでしょうか。
相手のできる・できないに関わらず、批判された事実は動かないのです。
「そこまで言うなら自分がやったらいい」
ここまでくるとただの責任転嫁です。
私がこうした言葉を嫌うのは一見正しそうに言っておきながら、その実ただ逃げているに過ぎないように思えるからです。
何から逃げているのか?
批判されたという事実からです。
一番目は批判の価値を落とすことで考慮するに値しないものだとしています。
二番目も文句と意図的に混同することで批判を無効化しようとしています。
三番目は立場の違いを利用して批判の正当性を損なおうとしています。
四番目に至っては自分の非を放り投げて相手に全部押しつけようとしています。
批判は相手の労力がのった、重い一撃なのです。
それをなかったことにするかのような、いたずらに躱すようなことは真摯な態度ではありません。
まして立場の違いを乗り越えて言われたようなことには正面から向き合わなければならないのです。
そこまでしてでも言いたかった思いが込められていることの証左です。
それを「あなたはまだ分かっていないのだから」などという態度で流すことは相手に対する愚弄とさえ言えるでしょう。
批判はされる側としてけっして心地いいものではありません。できることなら賛同を得たいものです。
しかしどちらにせよ履き違えてはならないのはその対象が「自分」というより自分の「意見」や「行動」にあるということです。
ある意見を表明したのが自分だったから、それに対する批判が自分にきたという、ただそれだけのことです。
つまり「自分が表明した意見・行い」への批判は「自分が」ではなく「意見・行い」に向いているのです。
このことは案外する側にしてもされる側にしても盲点かもしれません。
しかしこのことに留意していない限り建設的な議論は行われないでしょう。
批判のもつ重い意義をされる側はしかと受け止めねばなりません。
する側にしてもそれだけ丹念な思いでもってしなければなりません。
批判とそれを取り巻く意識がもっと充実したものになればいいなあ、と思います。
そして自分もきちんとした批判ができるようにならないとなあ、と頭を悩ませています。
おしまい