「この物語はフィクションです」

「もし世界が一人の人間によって救われたなら、その世界にはその者しか必要でない」*1

 一匹狼や一人で何でもできることがもてはやされるのは、大事な自分という稀少性を高めてくれるように錯覚するからである。ああいったものはほとんどフィクションでしかあり得ない。自分が特別で唯一無二であるというのはその通りだが、それは誰しもそうであって、普遍的なことである。
 みんな違って、みんないいはゴールでなくスタートであり、何が異なるかが要である。違いを示すのにもっと簡単なのは周囲を否定することだ。自分が他者と違うことは、端的に事実としてそうであるから。とはいえ誰にも妥当することを根拠にしているだけだから、固有性はない。当たり前のことを言っているだけで、オリジナリティがないのだ。他者の否定は、自分への過信をそれだけ高める。

 一人で何でもできる、という発想こそが、いわゆる行きすぎた個人主義として相応しい。それは他者の捨象である。我欲に満ちている、と言ってもいい。もはや他者は欲求充足のための手段だと、意識せずともそうみなされている。利己主義とはそういうことだ。
 反対に、一人では何もできない、と決めつけるのがパターナリスティックである。このトリックは、決めつける側は自分が自足していると考えていることだ。それを判断できると思っている。ここでも他者は対等な立場にない。

 この一人で為し遂げることができる、というヒーロー願望は、その願望が打ち砕かれないためにも、あらゆる言い訳をして他者との対等な協働を拒む。いわく、自分ひとりでできるからと、自分でやったほうがうまくいくからと言って。そうすることで幻想を守るのである。この願望は、自分が特別であり、しかし他者もまた特別であると認めるのを避けて、自分がどういう違い=複数性を発揮できるかを示さないことで、守られ続ける。
 これは何もなさないことに行き着くので、いつまでたってもヒーローになることはない。功績のない者を誰も称賛しない。ヒーロー願望の悲劇的あるいは喜劇的矛盾は、その願望を続ける限りけっしてヒーローになれないことである。せいぜいヒールになるのが関の山で、たいてい無名で終わる。

 物語には主要人物がいるから、その働きだけがクローズアップされる。事務的なことは描かれない。手続きもスキップされる。そうすることで、独断専行のように表現され、その成果がヒーローに帰される。
 この独断専行を実際にやったら不興を買うことになるのは火を見るより明らかである。自分だけが特別で、他者は凡庸であると決めつける態度は、事実に反するばかりか、他者の感情を逆撫でする。そうしてかえって意見は取り入れられず、行為は顧みられない。ヒーローになりたい者は、この否定に、評価されないことに不満を募らせる。それが身から出た錆とも気づかずに。まして自らは妨害を受けていて、それをしてくる敵を排除せねばならないと被害妄想を膨らませる。現実は他者との関係から成り立っていると理解できないので、空想のなかで生きるほかない。
 正しさの基準が自分そのものであるから、正義の味方どころか正義そのものであるとさえ自負する。それに歯向かうものを徹底的に悪と糾弾する。おとぎ話としても出来が悪すぎるが、物語がそうであるように都合の悪い部分は切り捨てられるので本人にとって整合性は保たれている。

 このヒーロー願望が破られるのは、まさにコペルニクス的転回と言ってもよい。本人の経験や認識が裏切られて、真相を突きつけられるのだからこれほど適格な喩えもあるまい。曇りなき事実の晴れやかな美しさの前には降参するほかない。
 それがいかにして起こるか、その衝撃がいかほどであるかは見当がつかない。事実を認めようとしなかった不誠実さに己自身が気づくほかあるまい。もとより他者の言うことに聞く耳をもたないので、身を以て思い知ることのみが物語に終わりを告げる。”親切”にも「王様は裸だ」と言ってくれる人ははまずいないのだ。

 上記のことを書き留めていたら、これと近いことを書いている記事を読んだ。

blog.tinect.jp

 この記事を読んで脳内でひらめいたのは『シン・ゴジラ』における「現実」と「虚構」の関係である。この場合の「虚構」とは、単独であらゆることができるということである。しかし「現実」はそうでない。自分の思い通りになるよう望むなら、それはフィクションにおいてしかあり得ないのだ。

 上に紹介した記事では、いわゆる「コミュ力」に言及されている。そういえば、『シン・ゴジラ』で矢口はしばしばコミュニケーションに失敗している。赤坂に釘を刺され、どこへの指示なのか聞き返され、泉にたしなめられ、激励が空振りする。物語のヒーローよろしく矢口ひとりで「巨大不明生物」が退けられることはない。現実には周囲の反応や行動、組織の意思決定や手続きがあって物事は進む。「巨大不明生物」を止めたのは矢口の発案に端を発する作戦だが、日本への熱核攻撃を阻止したのは交渉(“コミュ力”)に長けた里見総理大臣。物事が成し遂げられるのは一人の人間によってではなく、いつも複数の人間による、という教訓にするまでもない現実である。
 「巨大不明生物」と矢口蘭堂は合わせ鏡だろう。一個体で進化しつづけ無性生殖さえ可能な「巨大不明生物」。それに対して、一個人でもっと出来ることがあると思うも空回りし「うぬぼれるな」と言われる矢口蘭堂。矢口には「巨大不明生物」へのある種の憧憬とも言える思いがあるように見える。こう言ってよければ、『シン・ゴジラ』はフィクショナルというよりヴァーチャルに近い。架空の物語なのでむろん現実ではないが、現実味が多分に持ち込まれている。それにつられて観客が現実を投影することができる。あれをアニメでやるなら相当難しいに違いない。

映画『シン・ゴジラ』公式サイト

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政治学研究室

Weingut Dr.Schneider (ZunZingen)

ゲーテインスティテュートの企画で、バーデンのワインを6種類試飲してきた。Weingut Dr.Schneiderはフライブルクバーゼルの間くらいにある。試飲したのは白と赤を3種類ずつ。それぞれGutedel(シャスラ)、Weissburgunder、Graurburgunder、Spaetburgunder(und Barrique)、Cabernet Sauvignon & Merlotの計6種類。

Gutedelは青リンゴやレモングラスの香りが特徴的で、余韻に苦みが残る。Weissburgunderは青リンゴに加えてヘーゼルナッツの香りがする(ツナ缶っぽいとも思った)。より酸が強くて辛口に感じる。Graurburgunderはバナナやクリームの香りがして、味にも厚みが感じられる。ステンレスタンクでの醸造

Spaetburgunderは2013年がステンレスタンクで、2012年がバリックのもの。前者から赤いベリー系の香りがよく感じられた。ピノの特徴がよく出ている。後者からはコンポートしたベリーやバニラの香り。味もまろやかで果実味を豊かに感じる。Cabernet & Merlotはボルドーほどタンニンが強くないぶん、親しみやすい。好む人も多かった。カシスやブラックベリーに加えて、バニラや樽の香り。これらの赤ワインはすべてアルコール度数13%だが、同じようには感じなかった。

いくつか質問をした。まずGraurburgunderとRulaenderとの違いについて。日本語の記事で読んだ通り、Graurburgunderの方がより辛口に仕上がっているそうだ。おそらく国際的な評価を意識してのことだろうと思われる。それにRulaenderと名のついたものはあまり熟成に適さないのだろう。次にGraurburgunderに樽を使っているかについて。クリーミーな香りがしたから、もしかしてと思って訊ねたところ、そうではなかった。そういえば、ピノグリに特徴的な乾いた土っぽい香りは感じなかった。そして、なぜコルクを使わないかについて。Dr. Schneiderのワインは、スクリューキャップか専用のプラスチック栓だった。これはやはりコルクによる影響を避けたいためだそうだ。できればGutedelとシャスラの味の違いについても訊きたかったが、ドイツ語での言い方が分からずに訊ねじまいとなった。

最後に、試飲に使われたWeingutオリジナルのグラスに描かれた絵について。角が生えたような蛙はここのシンボルのようだ。なかなかいい感じだったので試飲グラスを購入した。そしたらおまけに、試飲で使ったCabernet & Merlotをくれた!ありがたい。
ドイツ語それ自体は分からずとも、自分が知っている内容なら理解できる。芸が身を助けるなら、ワインは懐を助ける。ドイツ語のワイン本を買ったので、これでワイン用語のドイツ語版を覚えて生産者に会いに行きたい。

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Weingut Dr.Schneider (ZunZingen)

ゲーテインスティテュートの企画で、バーデンのワインを6種類試飲してきた。Weingut Dr.Schneiderはフライブルクバーゼルの間くらいにある。試飲したのは白と赤を3種類ずつ。それぞれGutedel(シャスラ)、Weissburgunder、Graurburgunder、Spaetburgunder(und Barrique)、Cabernet Sauvignon & Merlotの計6種類。

Gutedelは青リンゴやレモングラスの香りが特徴的で、余韻に苦みが残る。Weissburgunderは青リンゴに加えてヘーゼルナッツの香りがする(ツナ缶っぽいとも思った)。より酸が強くて辛口に感じる。Graurburgunderはバナナやクリームの香りがして、味にも厚みが感じられる。ステンレスタンクでの醸造

Spaetburgunderは2013年がステンレスタンクで、2012年がバリックのもの。前者から赤いベリー系の香りがよく感じられた。ピノの特徴がよく出ている。後者からはコンポートしたベリーやバニラの香り。味もまろやかで果実味を豊かに感じる。Cabernet & Merlotはボルドーほどタンニンが強くないぶん、親しみやすい。好む人も多かった。カシスやブラックベリーに加えて、バニラや樽の香り。これらの赤ワインはすべてアルコール度数13%だが、同じようには感じなかった。

いくつか質問をした。まずGraurburgunderとRulaenderとの違いについて。日本語の記事で読んだ通り、Graurburgunderの方がより辛口に仕上がっているそうだ。おそらく国際的な評価を意識してのことだろうと思われる。それにRulaenderと名のついたものはあまり熟成に適さないのだろう。次にGraurburgunderに樽を使っているかについて。クリーミーな香りがしたから、もしかしてと思って訊ねたところ、そうではなかった。そういえば、ピノグリに特徴的な乾いた土っぽい香りは感じなかった。そして、なぜコルクを使わないかについて。Dr. Schneiderのワインは、スクリューキャップか専用のプラスチック栓だった。これはやはりコルクによる影響を避けたいためだそうだ。できればGutedelとシャスラの味の違いについても訊きたかったが、ドイツ語での言い方が分からずに訊ねじまいとなった。

最後に、試飲に使われたWeingutオリジナルのグラスに描かれた絵について。角が生えたような蛙はここのシンボルのようだ。なかなかいい感じだったので試飲グラスを購入した。そしたらおまけに、試飲で使ったCabernet & Merlotをくれた!ありがたい。
ドイツ語それ自体は分からずとも、自分が知っている内容なら理解できる。芸が身を助けるなら、ワインは懐を助ける。ドイツ語のワイン本を買ったので、これでワイン用語のドイツ語版を覚えて生産者に会いに行きたい。

「いつからシン・ゴジラの話と錯覚していた…?」

結論から言うと、もっかい観たい。

帰省して数日が経ち、持ってきていた本を読んでしまって手持ち無沙汰な昼過ぎ、映画を観に行ってきた。
ツイッターでちらほら面白い話が流れてくる「シン・ゴジラ」を。
俺がよく覚えているのは「ゴジラ対デストロイヤー」で、繰り返し見た。とはいえ、ゴジラにそう思い出が多いわけではない。
今回の動機としては時間あるし、いっちょ行ってくるか、本屋にも寄りたいからといったくらい。

シン・ゴジラ、面白かった。夏に映画館で観るのにピッタリ。手に汗握りながら観た。
感想として二つ。
観客は全体を見られるからまだ余裕があるけれど、実際の場面に居合わせたら自分は何をするだろうと考えた。
役割をこなす・責任を果たす・可能性を信じることに、自分は惹きつけられると改めて感じた。
自分が大学院生ということもあって、専門性の発揮と相乗効果に見入る。
この映画には、日本で暮らしていると感じる「あるある」ネタが随所に散りばめられていて、思わずニヤリとしたりクスリとしたりする。
ただ、よくよく考えると、それが「笑えない冗談」でもあることがすこし恐ろしい。
二度三度と観ることで、分かってくることもあるようだし、なによりまた観たいと素直に思ったから、また行こう。

「投票に行かない勇気」

「バラマキさん」
「九時五時、僕の名前を福祉政策批判の文脈でよく用いられる言葉みたいに呼ぶんじゃない。僕の名前は阿良々木だ」
「そちらこそ、私の名前を現実にはそうそうありえない勤務時間みたいな名前で呼ばないください。私の名前は八九時です。一時間勤務です!」
「それ、勤務時間というより通勤時間だな。それで何の用だ、八九寺?」
「いよいよ参院選の投票日ですね。今年から18歳以上なら投票できるようになったので阿良々木さんも晴れて一票をもつに至ったわけです」
「ああ、選挙か。ぼく、ちょっとそういう政治がらみの話って苦手なんだよなあ」
「おやおや。まわりに羽川さんや戦場ヶ原さんがいらっしゃるんですから、教えを乞えばいいじゃないですか」
「いや、ぼくの場合そういうんじゃなくて、なんて言うか、若い人も選挙に行こう!ただし、ある政党には投票しないものとする、みたいな雰囲気が苦手でね」
「ははあ、好きに書いてくださいと言われているのに、正解がある感じと似ていますね」
「そう。だから投票するのもしないのも気が重くて」

www.yomiuri.co.jp

「阿良々木さん、勇気と最後につければたいていの言葉はポジティブに置換できますよ」
「そんな馬鹿な。日本語はそんな単純な構造にはなっていないはずだ」
「やってみますか」
「…やってみろ!」
「ではまずは小手調べから」

「白票を投じる勇気」
「やるなあ。やっていることは普通に無効票を投じただけなのに、うしろに勇気とつけるだけでまるでそれが正しい行為であるかのようだ。そんなことは一言もいっていないのに」

選挙での「白票」を「社会を変える力がある」とミスリードする謎の集団「日本未来ネットワーク」のサイトが突如出現 | BUZZAP!(バザップ!)

公職選挙法 第六十八条(一部抜粋、強調筆者)

衆議院比例代表選出)議員又は参議院比例代表選出)議員の選挙以外の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする
 七  公職の候補者の氏名を自書しないもの
2  衆議院比例代表選出)議員の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
 七  衆議院名簿届出政党等の第八十六条の二第一項の規定による届出に係る名称又は略称を自書しないもの
3  参議院比例代表選出)議員の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
 九  公職の候補者たる参議院名簿登載者の氏名又は参議院名簿届出政党等の第八十六条の三第一項の規定による届出に係る名称若しくは略称を自書しないもの

「支持政党なしに投票する勇気」
「なんと!すげえ。結果として騙されているだけなのに、まるでそうすることによって民主主義を守ったかのような印象がある。そんなことは、一言も言っていないのに!」

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「投票に行かない勇気」
「な、なんてことだ!もはやあとがない。なにもしてなく、無駄に権利を放棄しているだけのはずなのに、あえてその選択に身を賭し、大義のために民主主義を憂えているかのようだ。そんなことは一言も、本当に一言も言っていないのに!だけど、いま僕は権利を行使しないわけには…」

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「権利を行使しない勇気」
「権利を行使しない!」

「言葉のかっこよさに引きずられて、つい権利を行使しないでしまった!実際は権利を行使していないだけなのに。日本語って簡単だなァ…!」

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この記事の元ネタはアニメ「偽物語」第一話Bパートにおける主人公・阿良々木暦八九寺真宵との掛け合い(勇気と~の部分)。アニメの原作は西尾維新による同名の著作

ところで60歳代の日本人人口およそ1,800万人に対して30歳代はおよそ1,750万人と大差がない。しかも20歳代の人口(1,300万人)は70歳代(1,270万人)よりも多い。
出典:−人口統計資料集(2015)−
若い人がどこに投票するかはさておき、もし高齢者並みの投票率となればこれまでとは違った政治風景が見られるかもしれない。
参院選は今日7月10日20時まで投票できる(一部地域を除く)。

君たちは白いキャンバスではない。

ドッカー・ノ・エライー学長が入学式で読んだ式辞が話題を呼んでいる。
ドーコニ・モナイ大学の入学式ではつい先月まで高校生だった若者たちが大勢座っていた。
そこに現れたエライー学長は、決まりきった挨拶のあと、こう切り出した。

「君たちは白いキャンバスではない」と。

白いキャンバス――この喩えは、よく無限の可能性を表すものとして用いられる。
曰く、君たちは白いキャンバスでそこには無限の可能性があるのだ云々…といった具合に。
エライー学長の念頭にはそれがあったのだろう。
それまで式辞に興味を示していなかった新入生も、その言葉にハッと顔をあげる者がちらほらといた。

「君たちは覚えているだろうか。初めてクレヨンを手にしたときのことを」

そう続けてエライー学長が話したのは、誰しもあったであろう幼いときのことだった。

「私は初めてクレヨンを手にしたとき、非常にわくわくした。私には描きたいものがたくさんあった。
ほかの友人には何を描いたらいいか戸惑っている者もいた。そういった者は先生に手ほどきをうけて上手になっていった」

私事で恐縮だが、私は後者のくちだった。ただクレヨンを持っては、手についたその色をぼんやりと眺めていた。
おそらく新入生も学長の話を聞きながら自分の小さいころを思い返していただろう。

「私はたくさんのものを描いた。だが、しばしば私が何を描いたか人に伝わらないことがあった。
実際のものを描いたのに想像上の生き物だと勘違いされたり、その逆だったりしたこともあった。
端的に言って私は悔しかった。どうして、みんな分かってくれないんだろうと。そういうときはクレヨンを手にしたくなかった」

今でこそ表現の世界で高い評価を受けているエライー学長にも、かつてそのような時期があったのだ。
遠いところにいると思われた人物の意外な過去に新入生も親近感を抱いたのか、最初のころよりも顔をあげて耳を傾けている人が多い。

「あるとき私は友達と大喧嘩した。私が猫だと思って描いているものを、その友達はどうしても犬だと言い張る。
最期には取っ組み合いにまでなった。そして最後にその友達が言い放ったことを、私は今でも鮮明に覚えている。
その友達はこう言ったのだ。お前の絵は分かりにくいんだと。私はあまりに衝撃を受けて固まってしまった」

当時のことを直接見たわけではないわれわれには、幼いエライーが実際に何を描いていたかは知る由もない。
ただ、学長の口ぶりからたしかにそのとき幼いエライーがよほど落胆していたことがよく伝わってきた。
過去を振り返るかのように間を置いて発せられた口調はしかし、存外に明るいものだった。

「友達に分かりにくいと叩きつけられた私はしばらく落ち込んだのち、すぅっと冷静になった。
私ははっきりと分かった。なぜ私の描いたものがその通りに人に伝わらないのかを。
あのときまで私にはそれが人からどう見えるかという視点がなかった。私に見えるように人にも見えていると信じていたのだ」

この言葉を耳にしたとき、私は思わずうなってしまった。
これでも文筆を生業にしている者として思い当たるところがないわけがなかった。
私は学長の話を聞くうちにどこかで自分の身と重ね合わせるように聞いていた。
新入生のうちにも顔に手を当てて宙を仰いでいる者がいた。きっと、似たようなことを経験したのだ。

「私は初めてクレヨンを手にした昂揚感そのままに描き散らしていったが、それは私だけのものであった。
絵に描いたものはほかの人の目にも触れて、その人なりに受け止められるということに気がつかなかった。
あれ以来、私の絵は変わった。なにより私自身が変わったのだ。きっかけを与えてくれたその友達には会えなくなった今も感謝している。
私は、君たちが白いキャンバスではないと言った。君たちにはあの日クレヨンを握った胸の高鳴りや戸惑いを思い出してもらいながら、
これから描こうとしているものを考えてみてほしい。そこに他の人はいるのか。独りよがりになってはいけない。
何を描いたらいいか分からなくなったり、何も描きたくなくなったりしたときには、自分にはないクレヨンを持っている人に会ってみるのもいい。
そうしてたくさんの彩りに富んだ大学生活を送ることができるよう祈念して、入学の挨拶とさせていただきたく」

エライー学長がそう言って式辞を終えると、自然発生的な拍手が会場に満ち満ちた。
なかには感極まって目もとを指でぬぐう新入生もいた。
思わず椅子から立ち上がって拍手をしていた私も、着席してからしばしの間はぼうっとしていた。
白いキャンバスなどではなく、一人ひとり異なった色のついた人生があるということを、エライー学長は描いてみせたのだ。

記者[ジューニン・トイーロ]